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袁氏の滅亡
官渡の戦いに勝利した曹操ではありましたが、未だに河北での袁紹の影響力が大きかったこともあり、袁紹の存命中は河北に攻め入る事はありませんでした。しかし官渡から2年後、袁紹が敗戦からの失意もあり病死してしまいます。
長男の袁譚と末弟の袁尚が後継者を巡って争いが本格化し、さらに家臣である郭図・辛評が袁譚側に付き、審配・逢紀が袁尚側に付いて互いに後継者を担ぎ上げ袁譚は青州、袁尚は冀州にてそれぞれ独立し袁家が分裂してしまいます。この分裂をチャンスとみた曹操はここで動きだします。
まず、青洲の袁譚と同盟を結び冀州の袁尚を滅ぼしその後袁尚は幽州の袁煕の元へ落ち延びます。続いて曹操は袁譚と同盟を破棄しこれを滅ぼし、袁譚を斬り殺します。
兵は神速を尊ぶ・・・
曹操は追撃の手を緩めません。さらに袁煕・袁尚兄弟のいる幽州に侵攻します。追い詰められた袁煕・袁尚兄弟は異民族の烏丸賊に援軍を依頼し抗戦を試みましたが、曹操に烏丸共々打ち滅ぼされてしまいます。拠点を失った袁煕・袁尚兄弟は遼東の公孫康の元に身を寄せますが、曹操からの後難を怖れた公孫康に兄弟共に打ち首にされます。
これにて河北で1大勢力を築いた袁氏は完全に滅亡してしまいます。時にして、官渡から7年後の207年の出来事でした。
曹操は袁紹を滅ぼした事により、中華の約半分を手中に収める事になりもはや誰も太刀打ちすることが出来ない程の勢力に成長しました。また、朝廷においても三公制を廃し丞相と御史大夫を置き、皇帝に圧力をかけ自らを丞相に任命させる等、朝廷内部でも絶大な権力を誇っておりました。
これらを踏まえたら、誰が見ても曹操の天下は目前でした。
しかし、曹操にはある1つの不安がありました。あの憎き劉備が荊州の劉表の元へ身を寄せている事です。劉備を早く取り除かなければ安心出来ません。そこで曹操に絶好の好機が到来します。それは、荊州牧の劉表が病で亡くなったからです。曹操はここで兵を興し、劉備の打倒と荊州侵攻を決意します。
208年荊州侵攻
荊州でも劉表の跡継ぎ争いが勃発し、亡き劉表の妻である蔡夫人と蔡瑁の画策により蔡夫人の息子である次男の劉ソウを跡継ぎにして、長男の劉キを殺そうとします。それを知った劉キは慌てて江夏に亡命する形で落ち延びてしまいます。そして、全権を握った蔡夫人と蔡瑁はあっさりと曹操に降伏したので曹操は一滴の血も流さず荊州をほぼ手中に収める事になります。
対して劉備は、曹操軍の襲来を受け初戦の曹仁との戦いでは軍師の徐庶の活躍により曹仁を撃破し、続いて夏侯惇との戦いでも軍師の諸葛亮の活躍により夏侯惇を撃破しましたが、曹操が自ら50万の大軍を引き連れて来た事で敗北してしまい、居城の新野と樊城を失い江夏の劉キの元へ逃げ延びてしまいます。
荊州を手に入れた曹操は休まず、次の的を江夏の劉備と江東の孫権に絞り虎視眈々と戦機を伺います。そんな中、劉備の元に江東の孫権から1人の使いが参ります。名は魯粛と。魯粛と言えば江東の周瑜と張昭に次ぐ名士として知られ、この登場に劉備と諸葛亮は驚かされます。
名目としては、劉表の慶弔見舞として訪れた事になりますが実際の中身は曹操に対抗する為に劉備への同盟の死者としてでした。ここで「孫劉連盟」が初めて結ばれる事となります。
そして、ついに三国志最大の戦役である「赤壁の戦い」へと繋がっていく事となります。
赤壁の戦い(策略戦)
208年の冬に曹操は100万の大軍で江東に向け出兵を開始します。
※実際は70万であった、30万であったと色々な憶測が飛び交ってますが、こちらでは100万とします
しかし、無敵とされる曹操軍にもいくつか不安材料がありました。
1、劉備と孫権が同盟を結んだ事
2、曹操の兵は北方育ちが多いため、南方の風土に合わず疫病が流行した事
3、江東には天然の要害である「長江」があり、曹操軍は水軍の経験がほぼ無い事
といったモノでした。
そこで、曹操は水軍の経験の豊富な蔡瑁(元劉表の部下)を全軍の水軍都督に任命し、兵士を調練させました。蔡瑁の統率力は見事なモノでその内容を実際目で確かめた呉の周瑜大都督(呉の総指揮官)も蔡瑁を警戒しました。そして調練している間に、曹操は周瑜の元親友である蒋幹を使って周瑜を引き抜こうと画策しましたが周瑜はそれを見破り、逆に蔡瑁が反乱を画策しているという偽った偽書を自分が寝ている隙に蒋幹に盗ませ利用し、曹操に蔡瑁を殺させました。
この蔡瑁の死により曹操軍では、水軍ど素人の于禁が後釜に座った事で水軍での能力が極端に弱まり、周瑜に有利な状況を生み出してしまいます。この偽りを後で知り周瑜に見事謀られた曹操は大いに怒りさらに策を弄します。
その名も「埋伏の毒」。
誤って殺された叔父の蔡瑁の仇撃ちと称して、曹操を倒す為に蔡和・蔡中を呉に偽装投降させます。叔父が殺されたことで呉はこの2人を信用するだろうという曹操の思惑によるものでした。しかし、これも見破った周瑜はそのままこの2人を利用してしまいます。呉の重臣である黄蓋と周瑜の仲をわざと不仲であるように蔡和・蔡中に見せ、黄蓋を曹操に偽装投降させる計画を実行します。
黄蓋の投降を受けた曹操は、始めこそ疑いましたが蔡和・蔡中の手紙を見て周瑜と黄蓋の不仲を知ったので、黄蓋の投降を信用して許可してしまいます。さらに、周瑜は当時客人として呉に滞在していた諸葛亮と並び称される龐統に協力をお願いし、龐統は「連環の計」と称し曹操軍の船と船を鎖で繋ぐように仕向け、火を用いた際に他の船に燃え移り火が広がるように細工しました。
連環の計が発動する流れとしては、曹操は元々賢人を大切にする性格なので、龐統の来訪に喜んでしまいます。そして仕官を促しましたが龐統がこれを拒んだ為、せめて意見だけでも聞こうと試み、ちょうど船酔いが酷く士気が乱れている事に困っていた為それをを龐統に相談したところ「船と船を繋げれば揺れが無くなる」と龐統に諭され、それを聞いた曹操は納得し連環の計に陥ってしまうという話の流れとなります。
赤壁の戦い(本戦)
蔡瑁の死・黄蓋の偽装投降・連環の計により全て準備が整ったかに思えた周瑜でしたが、ここであるモノを見逃していた事に気付きます。
それは「風向き」です。
いくら火を用いてもその時に向かい風なら呉に被害が及んでしまいます。これにはさすがの周瑜もどうしようもなく落胆してしまいます。
そこで1人の男が立ち上がります・・・。
その者は、諸葛亮孔明。
彼は過去に奇門遁甲術を学んでおり、天候も風向きも自在に操る事が出来ると豪語するのです。
※正史では諸葛亮が風を起こしたという事実はございません
普通に考えれば嘘くさい話ですが元々、諸葛亮の実力を認め怖れていた周瑜はこの話を聞き諸葛亮に託します。そして諸葛亮によって東南の風(追い風)が吹き起こされその風を感じた周瑜はついに開戦を決意します。まずは、偽装投降した蔡和・蔡中を打ち首にし味方の士気を高め、黄蓋を予定通りに曹操へ投降させます。
曹操は投降してきた黄蓋を受け入れましたが、黄蓋は曹操の陣に深く入った所で一斉に火矢を放ちました。黄蓋の船にはたくさんの火薬・柴・油が積まれておりましたので、火は瞬く間に曹操軍の船に広がっていきます。消そうとしても消えない、船は鎖で繋がれている事もあって曹操軍はどうしようもなくただなされるがままとなる有様でした。
そして火が長江を赤く染め始めた時に、周瑜は一斉に曹操軍へ総攻撃をしかけ壊滅させ、歴史的大勝利を得る事となるのでした。この赤壁の戦いにおいて曹操軍は実に30万以上の犠牲者と投降者を出してしまうに至り、曹操の天下統一への野望も大きく損なわれてしまう事になります。
周瑜のもう1つの思惑
曹操軍を見事撃ちくだいた周瑜ではありましたが、曹操への追撃を行いませんでした。それは、曹操からの報復を恐れたからです。また、周瑜はその報復の目を劉備に差し向けるために劉備軍に曹操の追撃を依頼します。劉備軍は、まず趙雲に先に曹操を攻撃させ続いて張飛に攻撃させます。
そして曹操が華容道に逃れついた時、関羽にとどめを刺すように命令しました。関羽の登場に曹操は最後の力を振り絞って応戦しようとしましたが共に逃げ延びてきた幕僚の程昱と曹操の身辺を守っていた張遼が「関羽を厚遇した過去があるので見逃してくれ」と頼むべきだとし、曹操もそれに従いました。
曹操は、関羽に以前厚遇した事を話しその恩を仇で返すのかと言いましたが、それに対し関羽は「顔良・文醜を倒し恩に報いたはず」と答えました。では5関の関所を破っても曹操は関羽を咎めなかった事を話すと関羽は言葉に詰まり、曹操を許してしまいます。
関羽に見逃され一生を得た曹操ではありましたが、赤壁の戦いによって大きく戦力が損なわれた事は紛れもない事実です。油断さえしなければ間違いなく勝ててたはずでした。
あれ?これどっかで同じ事聞いたぞ。
そうです。これは官渡の戦いでの袁紹と同じと言えます。
やっぱり人は力を持つとどこかで慢心や油断が生まれると感じさせられます。曹操は優れた君主なので袁家と同じ末路には立ちませんが、この赤壁の戦いの結果は少なくても、第2の袁紹と言えると思います( ゚Д゚)
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