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簡易三国志 魏編 「曹操」 ~荊州争奪戦と曹操が魏王に就任~

※目次

荊州争奪戦

 

赤壁の戦いで敗れた曹操は、命からがら曹仁の守る荊州の南郡に到着し暖を取ったのち曹仁に南郡侯惇に襄陽を守らせ、自身は敗残兵をまとめ許昌に帰還します。そしてここから荊州を巡って劉備と孫の間で争奪戦が繰り広げられる事となります。

 

呉の孫権と周瑜が赤壁で勝利したことを棚に上げ、その戦果として荊州は呉のモノであると劉備側に主張します。確固たる地盤を手にしたかった劉備ではありますが、この呉の主張によって後手に回ることになり、周瑜に曹仁が守る南郡への侵攻を先に譲ります。そして、周瑜は南郡に向け出兵し曹仁と対峙します。

 

曹仁との戦で毒矢に当たり重傷を負った周瑜ではありましたが、持ち前の統率力と分厚い攻めにより曹仁を潰走に追い込み、空になった南郡を奪取しようとした時に事件が起きてしまいます。劉備の軍師である諸葛亮が送った別動隊の趙雲が曹仁と周瑜が激しく激突している間に、南郡を占拠してしまうのです。

 

この劉備の行為に周瑜は大激怒しますが、曹仁との戦で疲弊した兵士達では攻撃する事も叶わず、泣く泣く柴桑に撤退します。そして、劉備は勢いに乗り襄陽・江夏を曹操から奪い続いて荊州南部の4郡長沙・武陵・零陵・桂陽まで手を伸ばし、荊州全域をほぼ手中に収める事に成功します。

 

※この劉備の一連の荊州奪還は、同盟こそしておりますが後々になるまで呉との因縁として残っていく事となります

 

その頃、曹操は赤壁の戦い以前から西涼の馬騰の襲来を危険視しており、馬騰を都に呼び寄せ動きを封じておりました。その馬騰とは後漢の名将馬援の血統となる人物であり皇帝に忠誠を誓っていた為、以前から曹操の討伐を考えておりました。そして曹操が赤壁で負けた事により、これを好機と捉え皇帝と結託し許昌で曹操討伐のクーデターを画策します。

 

しかし、これも曹操側に事前に察知され馬騰及び子の馬休と馬鉄が処刑されてしまいます。留守を預かる西涼の馬騰の長子である馬超はこの報せを聞いて大激怒し、曹操討伐の兵を挙げる事になります。

 

211年、曹操と馬超が激突

 

「西涼の錦」と謳われる馬超の猛攻は凄まじいモノでした。要所である長安をあっさり陥落させ、また曹操が馬超がまだ青二才であると舐めてかかった事により、曹操が馬超に後一歩の所まで追い詰めらる程のモノでした。そして、この馬超の凄まじい勢いに平静を取り戻した曹操は陣を敷いて馬超を牽制する構えを取りましたが、度重なる馬超の猛攻もあって築いた陣や城が全て取り壊されてしまいます。

 

そこで曹操は、まず徐晃と朱霊を馬超の背後に回らせ挟み撃ちを画策します。また、冬の季節であったのでその冷たい空気を利用し、陣に水を被せ「氷の城」を作りました。この氷の城にはさすがの馬超も攻めあぐね、さらに徐晃や朱霊に背後を取られた事や兵糧不足も重なった事で、戦況が悪化してしまいます。

 

そこで腹心で叔父である韓遂が曹操への和睦を馬超に提案します。父の仇である曹操との和睦に、抵抗があった馬超ではありましたが、今の戦況を考えてしぶしぶその提案を採用します。ただ、これがきっかけで曹操打倒を焦る馬超と和睦を提案した韓遂の間に亀裂が生まれてしまいます。

 

この亀裂を知った曹操は、ここで馬超と韓遂の仲を引き裂く為に「離間の計」を画策します。馬超は武勇一辺倒で権謀術数が足りず、戦略は韓遂に依存していた為この2人の決裂は馬超軍の崩壊を決定付けるモノになりました。離間の計にかかった馬超は韓遂を疑うようになり、最終的には身の潔白を証明しようとする韓遂の右腕を切り落としてしまいます。

 

そして、分裂した馬超軍に曹操は総攻撃を仕掛け壊滅させてしまいます。西涼に命からがら逃げ込んだ馬超ではありましたが被った被害がはかり知れず起不能となり、やがては長安の守備を任された夏侯淵によって馬超軍は滅ぼされしまいます。行き場のない馬超は、漢中の張魯を頼って落ち延びる事となります。

 

馬超を倒し意気揚々と許昌に凱旋した曹操でありましたが、しばらくして悲劇が訪れてしまいます。愛の息子である曹沖が病死してしまうのです。曹沖は聡明で将来を嘱望されており、次期後継者の一人として考えられておりました。

 

※1説によれば、後継者を狙う長子の曹丕に毒殺されたとも言われております

 

212年、曹操が魏公になる

 

曹沖の死で意気消沈する曹操に、転機が訪れます。重臣の董昭らが曹操に魏公就任を提案したからでした。魏公とは即ち王族となり、後漢皇帝の一族になる事を意味し皇帝とほぼ同様の扱いを受け、後漢とは別の独立した国家を絶てた事を意味します。また朝廷に参内した時は帯剣と土足で入場する事が許され席も皇帝の隣に位置することになります。

 

そして曹操の魏公就任に唯一異議を唱えた重臣の彧が病死してしまいます。

 

※曹操から空の器を渡され「お前はもう用済みだ」とされ憤死したとも、妬まれた曹操に毒殺されたともあります

 

元々荀彧は、漢王朝を補佐したい親王派でありました。曹操を全力で補佐したのも漢の治世を取り戻す為であり、また曹操が漢の臣下であったからです。それが曹操が魏公に就任する事により荀彧の思惑がずれてしまうことになるのです。

 

歴史にifは付き物ですが、もし荀彧が曹操に仕官する前に劉備と接触し家来になっていたとしたらどうでしょうか。漢朝再興を掲げる劉備と相性こそはあってたかもしれませんが配下になってたとは思えません。

 

なぜなら上記にもありますように、荀彧の目指す所は漢の治世を取り戻す事にあり王政復古です。その為には力が必要でした。当時まったく領土もない、名声もない、地位もない、場所も悪い(周りに袁紹や曹操がいる)劉備にその可能性を見出すことは不可能に近いと思います。

 

215年、曹操が漢中を併呑

 

曹操は益州を平定した劉備に圧力を加える為、張が治める漢中に侵攻します。漢中は益州の喉に当たる部分とされ、要所中の要所であり劉備より先に抑える事により戦を優位に進めようとする曹操の考えでした。守る張魯は弟の張衛を使って最初は曹操に抵抗しましたが、寡兵叶わず降伏してしまいます。

 

漢中を手にした曹操に、幕僚の劉曄と司馬懿が「このまま南下し、益州を治めて間もない劉備を滅ぼしましょう」と提案されますが、これを却下します。

 

216年、曹操が魏王になる

 

王とは皇帝に次ぐ位で、魏という国で新しい皇帝が新たに誕生したに等しくなります。まだ、皇帝簒奪とまではいきませんがそれに近いモノと言えるでしょう。

 

※漢の臣下の最高位は丞相で、公以上は本来ならば劉協の一族しかなれません。ちなみに王族は公⇒王⇒皇帝の順に偉くなります

 

こうして位人臣を極めた曹操でありましたが、最後まで皇帝を自称する事はありませんでした。それは時期が来なかったとも言われたり、周の文王を真似したとも言われてます。

 

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