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簡易三国志 蜀編 「劉備」 ~荊州争奪戦と漢中王即位~

※目次

孫権との荊州争奪戦

 

孫権と協力して赤壁の戦いで曹操を撃破した劉備はその戦果として荊州を巡って孫権と激しい争奪戦を繰り広げる事になります。赤壁の戦いは、呉のおかげで勝利したモノであり荊州の領有権は呉にあると孫権と周瑜が主張してきたので、劉備と諸葛亮は、しぶしぶこれを受け入れます。

 

そして、荊州領有権を巡って劉備との話を取りまとめた周瑜は、早速5万の軍勢を引き連れ曹仁が守る南郡へと出陣します。曹仁軍から毒矢を受け重傷を負った周瑜ではありましたが、持ち前の統率力と分厚い攻めにより曹仁を追い込み潰走させます。

 

しかし、4方に通じ曹操のいる中原に進出する為には、劉備や諸葛亮にとって荊州という地は無くてはならぬモノであった為、これを黙って静観している諸葛亮ではありませんでした。曹仁が潰走した報せを聞いた諸葛亮は、ここで思い切った行動に出ます。それは、趙雲に命じ周瑜より先に南郡を占拠してしまおうといったモノでした。

 

そして、周瑜より先に南郡に到着した趙雲は、そのまま南郡を占拠し門を固く閉ざします。後から来た周瑜はこれを見て「赤壁の恩を仇で返すか!」と趙雲を罵倒しますが、曹仁との戦で手痛い打撃を受けた周瑜は泣く泣く柴桑に引き返す事になります。南郡を手にした劉備は、諸葛亮に「これは卑怯ではないか」と問うのに対し、諸葛亮は「大義(漢朝再興)の前に、小義を重んじてはなりません」と劉備を諭します。

 

劉備軍は、そのまま襄陽と江夏も落とししばらくして荊州南部の4郡である長沙・武陵・零陵・桂陽を落とし、荊州のほぼ全域を手中に治める事となります。

 

周瑜による政略結婚

 

この劉備の快進撃を黙って見過ごす孫権と周瑜ではありませんでした。南郡を取られた際は、魯粛を使者として派遣し劉備に詰問させましたが、諸葛亮の機転で「荊州牧であった劉表殿の嫡子である劉キ殿はまだ存命で、この荊州は劉キ殿のモノである」と主張した為、魯粛はこの場を後にしますが、しばらくして劉キが病死してしまいます。

 

劉キが死んだ事を知った孫権と周瑜は、再度魯粛を使者とし荊州の返還を求めます。しかし、諸葛亮は「益州を平定してからお返しします」と先延ばしされた為、周瑜はこれではキリが無いとし孫権の妹(孫尚香)を劉備に嫁がせ呉におびき寄せそのまま劉備を殺してしまう作戦を計画します。

 

当時、劉備が50歳で孫尚香が17歳であった為、歳の差が33歳も離れてるのでこの結婚は実現しいだろうという周瑜の思惑によるモノでした。

 

婚礼の使者が劉備の元を訪れ、関羽・張飛及び重臣一同がこの結婚に反対する中、劉備は「漢朝再興の為には、孫権との盟は必要不可欠である」とし、婚礼の申し入れを承諾します。諸葛亮は、周瑜の策略であると分かっていた為、戸惑いますが劉備と同じく孫劉連盟の大切さを一番分かっていたので趙雲に劉備の護衛を命じ、自ら考えた作戦を3つの紙にし、3つの袋に分けて入れてそれを趙雲に渡します。

 

諸葛亮の1つ目の袋により、孫権の母親である呉国大に結婚がバレてしまい安易に劉備が殺せなくなってしまった上、孫尚香も結婚を受け入れてしまったので周瑜の作戦は頓挫してしまいます。このままでは終われない周瑜は、劉備を酒漬け女漬けにし建業に閉じ込めてしまう作戦に切り替えましたが諸葛亮の2つ目の袋によって、劉備は酒漬け女漬けから解され、3つ目の袋によって劉備が逃走ルートを確保した為、取り逃がしてしまいます。

 

呉にとって荊州を奪う所か、婚姻を結んだ事によって劉備と戦う事ができなくなるという最悪の事態を招いた周瑜は、病身を押して最後の賭けに出ますがこれも諸葛亮によって見破られてしまい血を吐いて死んでしまいます。享年35歳。

 

劉備の益州侵攻

 

周瑜が死にその後釜に、親劉備派である魯粛が居座った事で劉備は呉から背後を脅かされる心配が無くなりました。そして、益州の劉璋が漢中の張魯からの侵攻を怖れ、劉備に援軍を求めて来たことで、ついに益州へと進軍する事になります。また、劉璋の重臣であった張松と法正が寝返ってきた為、進軍の負担も減る事になりました。

 

劉備は、諸葛亮・関羽・張飛・趙雲らに荊州の留守を任せ、自身は龐統を軍師に任命し、黄忠と魏延を先鋒に5万の兵で出陣する事にしました。早速劉備は、張魯と最前線基地であるカ萌関で駐屯し張魯を迎撃します。そして、戦が混着し劉璋に援助を求めましたが、劉備の援軍を快く思わない劉璋の重臣である黄権や張任の進言によって、老兵とわずかな食のみが送られてきた為、劉備はこれに激怒しカ萌関を霍峻に任せ、自らは綿竹関に進軍しました。

 

そして、劉璋から自らの監視役として送られてきた高沛と楊懐を謀殺し、劉備を迎撃する為に劉璋から派遣された冷苞や鄧賢らを蹴散らし綿竹関の守将である李厳を降伏させます。続いてラク城を守る張任の所に向かう矢先、ここまで順調に進んできた劉備軍に思わぬ落とし穴が待ち構えます。

 

軍師の龐統が張任の伏兵によって射殺されてしまうのです。諸葛亮と並び称される龐統が死んだ事により、激しい悲しみと怒りに見舞われた劉備は、張任を激しく攻め立てますが璋軍随一の名将とされる張任も必死に持ちこたえます。決着が見えない劉備は、たまらず荊州の諸葛亮を呼び寄せます。そして、さすがの張任も諸葛亮の策略に叶わず捕らえられてしまい打ち首にされます。

 

ラク城を劉備に占拠された事によってもう後がない劉璋は、張魯に使い送り「蜀の半分を張魯に譲る代わりに劉備を撃退してくれ」と依頼します。張魯は元々蜀の地が欲しかった為この依頼を喜び当時客将として仕えていた猛将の馬超に命じ、霍峻が守るカ萌関を襲撃させます。馬超襲来と知った劉備と諸葛亮はすぐさまカ萌関へと向かいます。

 

そして、猛将として名高い馬超にいきり立った張飛が、勝手に馬超に一騎打ちを仕掛けてしまいます。張飛と馬超の一騎打ちは朝な晩にも繰り広げられ勝負がつかず、猛将好きな劉備も惚れてしまう程でした。そこで「馬超を投降させてみましょう」と李恢が豪語してきます。李恢は馬超と旧知の仲であった為とされています。

 

李恢に口説かれ劉備の配下に加わった馬超は、そのまま劉備に「劉璋攻めの先鋒を任せて下さい」と頼みます。馬超の来襲に恐れおののいた劉璋は、あっさりと劉備に降伏してしまいます。こうして215年、劉備は念願の西蜀を手にする事になるのです。

 

劉備の漢中制圧と漢中王即位

 

蜀を手に入れた劉備に、孫権は諸葛瑾を使者に遣わしその祝いと荊州の返還を求めます。劉備は「益州はまだ平定して日が浅く、益州の喉に当たる漢中も平定していない。よって蜀の安定を図る為にも、漢中を手にする事が出来たら返還に応じる」と答えます。しかし、諸葛瑾は孫権によって一族が牢に入れられてしまい、この交渉が決裂すると一族が危ないとし弟の諸葛亮に嘆願した為、やむなく劉備は「仕方ない。全部は無理だが長沙・零陵・桂陽を呉に返す事にしよう」と話しをまとめ呉との関係を維持し漢中攻略に視点を切り替える事にします。

 

曹操によって漢中を奪われた張魯は、そのまま曹操に降伏してしまいました。そして、呉との関係を維持し、戦力を整えた劉備は219年、漢中侵攻を開します。

 

漢中を守るは、百戦錬磨の曹操軍の中でも名将として名高い夏侯淵と副将の張コウでした。劉備は、まず黄忠を先鋒、軍師を法正とし夏侯淵と激突させ、張飛に副将の張コウと激突させます。夏侯淵は、定軍山に陣取り黄忠を迎え撃ちますが法正の陽動作戦に陥ってしまい戦場で孤立し、黄忠に打ち取られてしまいます。

 

張コウと対峙した張飛も終始互角の戦いを繰り広げますが、夏侯淵が敗れた事により張コウを退けます。漢中に逃げ込んだ張コウは曹操の援軍一派として駆けつけてきた曹洪と共に漢中を守りますが、諸葛亮の罠にはまってしまい漢中は劉備の手に落ちてしまう事となります。

 

そして、後から40万の大軍を引き連れ駆け付けてきた曹操も諸葛亮の策にはまってしまい、4方向から張飛・趙雲・黄忠・馬超の攻撃に遭ってしまいます。猛将として知られる息子の曹彰が援軍として駆け付けてきたので、曹操は命拾いしますが、この戦闘で大打撃を被ってしまった為退却します。

 

漢中を手にし曹操を潰走させた劉備軍は、勝利に酔いしれ漢朝再興も現実味が出始めた時でした。さらに、諸葛亮及び重臣達の勧めで最初は断りますが、劉備は漢中王に即位し魏王である曹操と対等の立場になります。これと同時に5人の猛(関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超)に官爵を与え、五虎大将軍としてその勇名を天下に轟かせる事になります。

 

領土も荊州・益州・漢中を手にした事で、天下の約半分を占める事になり戦力も国力も大いに充実し、曹操を破った事で士気も盛んな劉備軍は、この時全盛期を迎えておりました。悲願である漢朝再興もこのまま行けば叶うかもしれませんでした。

 

しかし、そんな劉備の元へ暗い影がひしひしと押し寄せてくのです( ゚Д゚)

 

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