※目次
孫権帝位に即く
229年、群臣達に帝位に即位するよう進言され、孫権は皇帝に即位します。そして、呉の初代皇帝となると国号を黄龍と改め建業に都を置きました。蜀からも陳震が祝賀の使者として訪れ、蜀と天下を2分する事を誓い、友好関係を強化します。
呉を訪れた陳震に孫権は「今諸葛亮殿の側近を務めているのは誰だ?」との問いに陳震は「魏延と楊儀です」と答えると孫権は笑って「魏延は勇猛だが我欲が強く、もし諸葛亮殿が亡くなったら蜀に必ず害をもたらすだろうと言い、楊儀においてもうわべだけで中身がなく大事は成せない」と称し最後に「諸葛亮殿が決める事で儂が言う事ではないがな」と口にしたそうです。
陳震がその後蜀に帰還し、この話を諸葛亮に告げると諸葛亮は「会った事もない人間の中身をここまで言い当てるとは。孫権は恐ろしく成長している」とあの諸葛亮が感服し、ぶったまげたそうです。
234年に諸葛亮の要請に従い、諸葛亮は北伐を再開し呉は荊州と合肥と蜀呉合わせて3方向から魏を攻める大規模な戦が始まりますが、魏の満寵に苦戦し出鼻を挫かれた呉軍は後から援軍として駆け付けた魏帝の曹叡に不意打ちを喰らわされ合肥方面を担当していた諸葛瑾が敗北してしまいます。
また荊州方面を担当していた陸遜は、孫権へ間者を放ち「曹叡を挟撃しましょう」といった作戦が計画されましたが、運悪くその間者が曹叡に捕まってしまい計画が漏洩した事でなすすべが無くなり呉軍は全面撤退してしまいます。
呉軍撤退の報せを聞いた諸葛亮は、非常に落胆しその心痛もあってか程なくして病死してしまいます。
陸遜、冤罪を被り憤死する
諸葛亮の病死や魏で相次ぐクーデター(遼東の公孫淵の反乱や文欽の反乱等)もあって三国とも激しい戦がなく、平和とは言えませんがしばらくは戦況が落ち着きます。そんな中、孫権が年を重ねたせいかボケ始めてしまいます。
群臣の諫めも聞かず佞臣とされる呂壱を重用したりとか、遠く離れた公孫淵に援軍を送ろうとした事など。さらに孫権の痴呆を悪化させる出来事が起こります。聡明で知られ良き後継者となれたはずの嫡子孫登が33歳という若さで病死してしまうのです。
そして、次期後継者に3男の孫和を指名し太子にしましたが当時孫和と同等の扱いを受けていた4男の孫覇がこの決定に不満を抱きこの2人の中で次期後継者を巡って骨肉の争いが繰り広げられます。また重臣達もこの争いに巻き込まれ孫和派と孫覇派に分かれてしまう有様でした。
この骨肉の争いを二宮事件といいます。
この骨肉の争いに巻き込まれた陸遜は、孫和の側近でもある陸インの一族であり、孫和が嫡子で孫覇が庶子な為孫和の王位継承が正当だと孫権に主張し続けていましたが、次第に孫覇派が優勢になり孫和廃立が強くなったため、陸遜は孫覇派からあらぬ罪を被せられてしまいます。
そして、孫権から罪行20条を持って罪を突き付けられこれを知った陸遜は憤死してしまいます。享年62歳。
陸遜の死後、子の陸抗が父の無実を訴えそれを知った孫権は深く悲しみ涙しながらこの20条を焼き捨てたとされます。
孫権の最後
陸遜の死や8年以上も続く孫和と孫覇の対立に嫌気がさした孫権は、末っ子の孫亮を寵愛し始め結局この両者を排して孫亮を次期後継者とするといった、無茶苦茶な事を言い始めます。そして、孫和を幽閉し孫覇を自害に処します。
後継者は、孫亮に決まりましたがこの8年も及ぶ二宮事件によって群臣の間で大きな亀裂を生み、陸遜を含め多くの家臣達が自殺・処刑・追放され呉の国力が大きく衰退する事になります。
そして252年、名君として名を馳せた孫権は晩年には呉に大きな禍根を残す形でこの世を去ります。
~孫権仲謀、享年70歳~
父や兄を相次いで亡くし時代に翻弄された孫権は、19歳という若さで父と兄の覇業を継ぎ、呉を1つにまとめ上げやがては帝業まで成し遂げたその実績は、後世まで長く語り継がれる事になります。しかし、後年重臣の陸遜を憤死させたり国力を大きく衰退させた事で自身の評価を落とした事は非常に残念ですね( ゚Д゚)
※呉編「孫権」の前記事