色んなアンサー

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簡易三国志 蜀編 「劉備」 ~諸葛亮の初陣と赤壁の戦い~

※目次

諸葛亮の初陣と劉表の死

 

諸葛亮を配下に加えた劉備でしたが、しばらくして荊州牧の劉表が重篤に陥ってしまいます。劉表は死ぬ間際で劉備に「劉キは病弱で劉ソウでは曹操に太刀打ち出来ない。貴殿が荊州を受け継いでくれないか」と話しますが、劉備は断ってしまいます。諸葛亮は「何故荊州を受け取らないのですか?」と劉備に問うと「同族の国をよそから来たものが、易々と受け取る事は出来ない」と劉備に言われてしまい溜め息をつきながらも劉備の言葉に従います。

 

そして、劉表が死に蔡夫人と蔡瑁によって劉キは廃され劉ソウが荊州の後を継いでしまいます。劉キは蔡夫人らからの後難を怖れ江夏に逃げ延びてしまいます。劉表が死にそれを好機と捉えた曹操は、夏侯惇に10万の兵を預け新野の劉備を攻めさせます。劉備は、諸葛亮に意見を求めると「初陣にもってこいです。前もって勝ち戦の祝宴の支度をしておきましょう」と言われ、諸葛亮の余裕な振る舞いに感服します。

 

諸葛亮は、趙雲に命じ囮となって夏侯惇をおびき寄後続部隊と引き離します。引き離された後続の夏侯惇軍副将である于禁と李典の部隊は横に伏せていた関羽と張飛の火攻めにあい大打撃を受け、孤立した夏侯惇も劉備軍に一斉に攻撃され壊滅してしまい曹操の元へ退却してしまいます。

 

そして、夏侯惇の敗北を知った曹操は、怒り狂いら50万大軍を引き連れ新野に攻め込んできました。荊州牧の劉ソウも曹操の圧力に屈し、降伏してしまいます。内と外に敵を持ってしまった劉備に諸葛亮は「ここは新野を捨て、劉キ殿のいる江夏へとち延びましょう」と進言し、劉備もそれに従います。

 

しかし、新野を無償で渡す諸葛亮ではありません。前もっての中に火罠をしかけておき、新野城に入城した曹操軍に焼き討ちを仕掛け甚大な被害をもたらせます。ですが、ここで問題が発生してしまいます。家を失った民衆達がこのまま劉備に付き従って江夏に落ち延びると言うのです。民を引き連れて逃亡する等、前代未聞ですぐさま曹操軍の追っ手に捕まってしまう為諸葛亮は「ここは民衆の事は諦めて下さい」と劉備に進言しますが「私は民を見捨てる事は絶対にしない。もし、民が私を見捨てようとも私は民を見捨てない」といい、劉備のこの言葉に諸葛亮は「なんと立派な主君だ」と感激します。

 

血眼になって押し寄せてくる曹操軍に甚大な損害を被り趙雲の活躍で息子の阿斗(劉禅)は無事でしたが、妻を失ってしまいます。そして追い詰められた劉備は、張飛が囮になったり劉キからの援軍もあって間一髪、曹操からの追撃を逃れる事となります。

 

魯粛との出会いと孫劉連盟

 

江夏に落ち延びた劉備は、しばらくして江東からの使者であ魯粛を迎える事になります。魯粛の目的は、建前では劉表の慶弔のお見舞いとしてですが、本音は曹操軍の戦力分析と劉備と同盟にありました。孫権との同盟は、劉備も諸葛亮も願ったりであった為同盟を快諾します。そして、今度は返答の使者として呉に参る必要があった為、諸葛亮がその任を受け魯粛と共に江東に向かう事になります。

 

江東では曹操の圧力によって、重臣の張昭を中心する降伏派周瑜と魯粛の開戦派の2つに分かれておりました。開戦派である諸葛亮としては、孫権を説得し孫劉連盟を強固モノとする為にも、張昭ら降伏一派を黙らせる必要がありました。そして諸葛亮と張昭らによる壮絶な舌戦が繰り広げられる事になります。戦に見事勝利した諸葛亮は、孫権の説得にも成功し開戦を決意させ孫劉連盟を締結させます。

 

孫権は周瑜を全軍大都督、程普を全軍副都督、魯粛を参軍校尉とし諸葛亮もしばらく周瑜の与力として江東に留まる事になります。

 

赤壁の戦い(周瑜との確執)

 

208年の冬、ついに曹操は100万の大軍で江東に向け出兵を開始します。

 

周瑜はまず曹操の兵は北方育ちが多いため、南方の風土に合わず疫病が流行した事を利用し戦を極力長引かせるようにし無敵の呉水軍を駆使して江東の天然の要害である「長江」戦場とするように戦略を練ります。

 

しかし、曹操軍の水軍を任された蔡瑁(元劉表の部下)の統率力は見事なモノであった為、周瑜は蔡瑁の対応に悩まされましたが、曹操の元から旧友の蒋幹が訪れ自身を抜こうと画策しているのを逆に利用し蔡瑁の殺害に成功します。この策略を周瑜は諸葛亮に自慢するが軽くあしらわれてしまい逆上してしまいます。

 

続いて、蔡和・蔡中による「埋伏の毒」も周瑜は見破って逆にこれを利用し黄蓋の偽装投降を成功させますが、諸葛亮も見抜いておった為、それが面白くなく諸葛亮の殺害を計画します。魯粛や妻の小喬に諫められますが傲慢な周瑜は怒りがまらず諸葛に難題を突き付けます。

 

周瑜「諸葛亮殿。実は、今矢が不足しておりまして10日以内に10万本の矢を作ってもらえませんか?」と言います。当時の技術力では、10日に10万本の矢が作れるわけがない為、周瑜はあえてその無理難題を突き付け、出来なかった時には諸葛亮死んでもらおうと考えました。

 

しかし、諸葛亮は「3日で作ってみせます」というのです。この諸葛亮の言葉に驚いた周瑜は、真相が解らないまま黙って経過を見守る事にします。

 

諸葛亮は、小舟に藁やかかしを乗せ3日3晩曹操軍に夜襲を仕掛けました。夜で視界が悪い曹操軍は一斉にその小舟目掛けて矢を放ちます。そして、退却し小舟と藁とかかしに刺さった矢を回収すると軽く10万本を超えてしまったのです。10万本を目の前に出された周瑜は、言葉を失い「諸葛亮を殺さなければ必ず後の災いとなる」と確信したそうです。

 

諸葛亮との確執を抱えた周瑜ではありましたが、当時呉の客人として迎えられていた龐統の連環の計によって開戦の準備が全て揃ったかに思えました。

 

しかし・・・。

 

赤壁の戦い(決戦)

 

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周瑜は、ここであるモノを見逃していた事に気付きます。それは風向きでした。

 

いくら火を用いてもその時に向かい風なら呉に被害が及んでしまいます。これにはさすがの周瑜もどうしようもなく落胆し、寝込んでしまいます。突如周瑜に寝込まれて困った魯粛は諸葛亮に相談します。諸葛亮には周瑜の悩みが分かっておりました。

 

そして、諸葛亮は周瑜の元へ赴き「貴方の悩んでいる事は、風向きでしょう」といい、誰にも打ち明けていない自分の心をあっさりと見通した諸葛亮に「先生には勝てないな」と周瑜は起き上がります。諸葛亮はここで過去に奇門遁甲術を学んでおり、自在に風を操る事が出来ると豪語しました。

 

※正史では諸葛亮が風を起こしたという事実はございません

 

諸葛亮の実力を認め怖れていた周瑜は、この話を聞き諸葛亮に託します。そして、諸葛亮によって東南の風(追い風)が吹き起こされの風を感じた周瑜はついに開戦を決意しますが、それと同時に「諸葛亮を殺せ!絶対生かして返すな!」と呂蒙に命じます。しかし、周瑜が襲ってくる事を予知していた諸葛亮は事前に趙雲に命じ小舟を用意させていたので、周瑜から逃げ延びる事に成功します。

 

諸葛亮を取り逃がした周瑜は、取り乱しますが魯粛に諭され平静を取り戻し曹操との戦に気持ちを切り替えます。黄蓋を予定通りに曹操へ投降させ一斉に火矢を撃たせます。黄蓋の船にはたくさんの火薬・柴・油が積まれておりましたので、火は瞬く間に曹操軍の船に広がっていった所で、周瑜は一斉に曹操軍へ総攻撃しかけ壊滅させ、歴史的大勝利を事になります。

 

しかし、周瑜にはもう1つの狙いがありました。

 

それは曹操への追撃を一切行わず、曹操からの報復を全て劉備に向けたかった事です。そして周瑜は、劉備軍に曹操への追撃を依頼します。この周瑜の考えを諸葛亮は見破っておりましたが、同盟国の要請に応えない訳にもいかなので、趙雲に先に曹操を追撃させ、続いて張飛に追撃させますが最後の一手に悩んでしまいます。

 

ただ、関羽だけは使いたくありませんでした。

 

義理堅い関羽が過去に恩がある曹操を殺す事が出来ないと思ったからです。しかし、関羽が「もし、曹操を逃がしてしまったらこの私の首を差し上げます」とまで言ってきたので曹操のとどめは関羽に任す事にしますが、結局華容道で曹操を追い詰めた関羽は、諸葛亮の予想通り昔の温情に付け込まれてしまい、曹操を取り逃がしてしまいます。

 

曹操を取り逃がし戻ってきた関羽を諸葛亮の厳しい詰問が襲います。

 

諸葛亮「関将軍。貴方は自分で何をやらかしたのかお分かりか?」

 

関羽「存じて御座います」

 

諸葛亮「貴方のせいでまた罪もない人間が曹操の手によって死んでいくのですぞ!誰か関羽の首を刎ねろ!

 

まわりが唖然とする中、劉備と張飛が必死で諸葛亮を説得した事によって一命を取り留めた関羽でありましたが、この時を境に劉備軍の団結力が一層高まっていく事になるのです。

 

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