色んなアンサー

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簡易三国志 蜀編 「劉備」 ~誕生から反董卓連合崩壊まで~

※目次

 

劉備(字は玄徳)は、161年劉弘の子として河北に生まれます。元は前漢の中山靖王劉勝の末裔とされ、王族としての血統がありながらも、父劉弘が早死にした事と後漢の悪政によって腐敗した漢王朝によって生活は貧しくなり、母と共に莚を織って生計を立てておりました。

 

劉備が15歳になった頃、劉備と同郷で儒学者として有名な盧植の元で学問を学ぶ事になり、そこで出会った同窓の公孫瓚と兄弟のように親しくなり、この時に公孫瓚「刎頸の交わり」を結んだとされます。

 

劉備は乗馬・闘犬・音楽を好み、見栄えがある服装で身なりを整える等何かと派手好きであった為、周囲からも人気が高くまた豪傑達と好んでお酒を交わす事が多かっそうです。この豪傑達の中に、後の運命を共にする関羽と張飛が含まれておりました。

 

桃園の誓い

 

184年、ちょうど劉備の村に立ち寄った中山の豪商である張世平と蘇双は、たまたま劉備を見かけその人となりに「只者ではない」と思い、大金を与えます。大金を得た劉備は関羽と張飛及びその他仲間達を呼び、大金を使って義勇兵を募事にします。

 

そして、息子の華やかな門出を祝う為に、母は隠していた財産を使って劉備・関羽・張飛の宴席を設けます。桃の木が見事に成熟していてピンク色に美しく彩られたその宴会は、後に桃園の誓いと名付けらました。

 

ここで劉備・関羽・張飛は口を揃え「我ら三人、生まれし日時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者達を救わん。上は国家に報い、下は民を安んずる事を誓う。同年・同月・同日に生まれる事を得ずとも、同年・同月・同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すし」と天に向かって言葉を発し、この時からこの3人は固く結ばれた義兄弟となり、ここからこの人の長い長い戦いが始まる事になったのです。

 

劉備の初陣と黄巾の乱

 

後漢の高官による相次ぐ賄賂や汚職、民衆への重によって天下が嘆き困窮を極めた時、太平道と呼ばれる宗教団体を築いた教祖の張角が腐敗した漢王朝に対し、大規模な反乱を中国各地で起こします。

 

その名も黄巾の乱

 

劉備は、腐敗こそしてるが漢王朝を守る為に決起し黄巾軍の来襲を受けている皇帝の一族である幽州太守の劉焉の元へ、義勇軍を引き連れ援軍に向かいます。劉焉は、劉備の出自を聞いて我が一族と知り、義勇軍の勇ましさも知って即座に劉備を迎い入れそして、配下である鄒靖の元に配属させ黄巾軍を迎え撃たせます。

 

結果、関羽と張飛が持ち前の武勇で黄巾軍を圧倒し撃退する事に成功します。この劉備の功を劉焉は朝廷に報告し、備はこの時に安徽県の県令に任ぜられます。

 

しかし、安徽県の県令は長続きしませんでした。都から使者として督郵が訪れ賄賂を要求されたので劉備はそれを拒みます。賄賂を拒まれた督郵は怒り狂い劉備に難癖を付け始め、挙句の果てには朝廷に劉備に対して偽りの弾劾状を送ったのです。これにった張飛は督郵を100回鞭打ったので後難を怖れた劉備は県令の印綬を督郵の首に掛け関羽・張飛とに逃亡してしまいます。

 

反董卓連合に参加

 

安徽県を離れ路頭に迷う劉備3兄弟に、1つの転機が訪れます。その頃朝廷では何進の暗殺、十常侍らの処刑によって大混乱に陥っていました。そこで冀州の袁紹が推薦した董卓が皇帝をないがしろにし洛陽を我が物とし、暴政を振りまいたのです。

 

この董卓を討伐しようと盟主の袁紹、参謀の曹操を中心とした各地の群雄達が続々と集まり、反董卓討伐連合が結成されました。劉備もこの連合に加わろうと袁紹の元へ訪れたが袁紹と袁術は義勇軍を見て「田舎者はいらん。国にとっとと帰れ」と冷たくあしらわれ、この対応に激怒した張飛が袁紹と袁術に歯向かおうとしますが、操の取りなしで辛うじて連合に加わ事に成功します。

 

※ちなみにこの時初めて劉備と曹操が顔を合わせる事になります

 

連合の結成に驚いた董卓は、華雄に汜水関を守らせます。連合軍の先鋒は江東の虎と呼ばれる孫堅に決しました。さすがは孫堅、持ち前の武勇と采配で華雄を圧倒しますがそれを怖れた兵站を担当する袁術に、物資の供給を断ち切られ武器不足と兵糧不足に陥り、撤退してしまいます。

 

孫堅が撤退し息を吹き返した華雄は、反撃に転じ持ち前の武力で連合軍の将軍らを一騎打ちにて殺していきます。華雄の強さに連合軍は狼狽したが、ここで関羽が華雄との一騎打ちを袁紹に所望します。しかし、また袁紹が関羽を馬鹿にしてきた為、曹操が中に入って仲介に入った事により曹操から酒を渡され、華雄との一騎打ちの許可を得ます。

 

そして、馬に乗るや真っ先に華雄の元へ突きかかり振りかぶった青龍偃月刀の轟音と共に華雄の頭上から下へ振り下ろしわずか1合で華雄を仕留めてしまのです。この関羽の強さに連合軍は静まり返り城に戻った関羽は「今頃、酒の酔いが回ってきた」と言葉をこぼしその場を後にします。この言葉を聞いた曹操は「古今稀に見る豪の者よ」と言ったそうです。

 

※おそらくこの時くらいから曹操は、関羽に一目ぼれしていたと思われます

 

反董卓連合の崩壊

 

華雄を打ち取られた董卓軍は、総崩れを起こし汜水関を連合軍に奪われてしまいます。華雄敗北の報せを聞いた董卓は、連合軍の勢いに押され頼みの綱である呂布を第二の防御線である虎牢関に派遣し、呂布に全てを掛けました。呂布到来の報せを受けた連合軍は、一斉に浮足立ち城門を固く閉ざし守備を固めます。

 

これを見た呂布は、袁紹や曹操らに向かって「腰抜け共!出てきて勝負しろ!俺に一騎打ちで勝つ事が出来たらこの場を退いてやる」と豪語します。呂布と一騎打ちをして勝てる訳が無いため、皆呂布の挑発に静観を貫く中1人の男が立ち上がります。

 

その男の名は燕人張飛

 

愛用の蛇矛を片手にすぐさま呂布の元へ駆けつけ、張飛は呂布に向かって「3つの家の奴隷め!」と呂布を挑発します。

 

※3つの家の奴隷とは、呂布はその名の通り呂家の出自にも関わらず、呂家を裏切り養父であった丁原も殺害し董卓の養子となった経緯があり、一生に3つも家を変えた為不忠者を意味する言葉

 

これを聞いた呂布は怒り狂い張飛に猛然と突きかかります。しばらく互角の戦いを演じ張飛の腕の凄さに驚いた呂布ですが、自力で勝る呂布が次第に張飛を押し始めます。そして、張飛危うしと見た関羽が張飛に加勢します。呂布は1対2という局面に立たされた上に、相手が関羽と張飛といった稀代の猛将が相手だった為、さすがに叶わず関羽に打ち取られそうな所で、劉備が中に入ってきた為一命を取り留ます。

 

劉備は呂布に「何故、貴殿のような勇猛な将軍が董卓に肩入れするか」という問いに、呂布は何も答えずこのまま軍をまとめ退却します。

 

呂布も退き追い詰められた董卓は、腹心の李儒の進言で洛陽から長安への遷都を決断します。代々漢に仕えてきた重臣達は一斉に遷都を諫めますが、董卓は反対した者達を処罰し遷都を強行したことにより洛陽は火の海となり、約400年続いた大漢の都である洛陽が崩壊してしまいます。

 

そして、火の海と化した洛陽に到着した連合軍は、曹操の独断での董卓追撃や孫堅の玉璽強奪疑惑、各々の私利にばかり走り全くといっていいほどまとまりに欠けていた連合軍はここで瓦解する事になり、程なくして互いに地盤を巡って争う群雄割拠の時代へと突入していく事となります( ゚Д゚)

 

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