色んなアンサー

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簡易三国志 呉編 「孫権」 ~兄・孫策の死と赤壁の戦い~

※目次

兄・孫策の急死

 

孫策が電光石火な侵略を行い瞬く間に江東を制圧した為、元の豪族等を中心に根強い抵抗勢力を抱え事になります。孫策は、今後の中原進出の為にもこの抵抗勢力を除かなければ常に背後を脅かされる事になる為、抵抗勢力への苛烈な粛を行います。この粛正の中に抵抗勢力の中心人物とされる許貢が含まれており、彼を殺害したことにより許貢の部下から大きな反発を招くことになります。

 

孫策は狩りが好きでよく単独で行動する事が多く、その情報を知っていた許貢の部下達が裏で人を集め狩りに出た孫策を襲います。孫策も持ち前の武勇で激しく抵抗しますが、所詮1人ではどうしようもなく暗殺されてしまいます。

 

孫策は、この時まだ25歳

 

200年、孫権が家督を継承

 

父と兄を相次いで亡くした孫権は、19歳という若さで家督を継承します。まず孫権は、張昭を自らのとして仰ぎ国政を整えまた、周瑜・程普といった呉の中心人物を一つにまとめ上げ人間関係を強化していきます。そして周瑜から名士の魯粛を推薦されこれを登用しさらに諸葛瑾・呂蒙・陸遜といったこれからの呉を支えていく事になる人間も次々と登用していく事で人材の強化を図ります。

 

国政も人材も整った孫権は、203年ついに父・孫堅の仇である黄祖討伐へ出兵します。そして黄祖を破りもう少しで仇がとれるところまで黄祖を追い詰めましたが、江東から急使が孫権の元へ参ります。江東の南部を拠点としている山越族(蛮族)が反乱を起こしたのです。

 

孫権は呂範と賀斉に命じ、山越の討伐に向かわせます。そして江東に迫ってきた山越族を撃退します。しかし、山越の勢力はまだ存在している為、黄祖討伐を一旦保留にし孫権は周瑜と孫瑜を連れて山越討伐に向かい根絶やしにする事は叶わなかったが山越兵の被害がこの戦で殺害・捕虜を含め延べ数万人に上った事で山越族の弱体に成功します。

 

山越を抑え江東で安定を取り戻した孫権は、再び黄祖討伐に向け出兵します。そして黄祖を夏口にまで追い詰めそこで討伐を果たし、父・孫堅の仇討ちを成し遂げます。

 

208年、赤壁の戦い(孫権の決断)

 

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劉備が曹操に敗れ江夏に落ち延び、長年にらみ合っていた劉表の後を継いだ劉ソウは、曹操にあっさり降伏してしまいます。江東に迫ってくるのも時間の問題と判断した孫権は、まず魯粛を劉備の元へ派遣し、同盟を促します。そして同盟の返答の使者として劉備の軍師である諸葛亮が魯粛と共に江東を訪れます。

 

ちょうどその頃の江東では、曹操への降伏を主張する張昭を中心とした文治派と曹操への開戦を主張する周瑜・魯粛による軍事派の意見で2つに大きく分していました。そこで元々開戦を前提で孫権と同盟を結んだ諸葛亮は、呉の張昭を中心とした文治派にその舌先で人を殺められると例えられる程の得意な弁舌で文治派達を論破し、降伏論を一蹴してしまいます。

 

そして、諸葛亮・周瑜・魯粛から開戦の説得を受けた孫権は曹操との開戦を決意します。その時、孫権はこの2つに分かれた派閥を剣を用いて1つにまとめます。剣で机を真っ二つにし「今から降伏を唱える者は、皆この机のようになる」と。

 

赤壁の戦い(周瑜の智謀)

 

孫権は、周瑜を全軍大都督、程普を全軍副都督、魯粛を参軍校尉に任じ、曹操を迎え撃たせます。そして208年の冬、ついに曹操は100万の大軍で江東に向け出兵を開始します。

 

周瑜はまず曹操の兵は北方育ちが多いため、南方の風土に合わず疫病が流行した事を利用し戦を極力長引かせるようにし無敵の呉水軍を駆使し江東の天然の要害である「長江」を主戦場とするように戦略を練ります。

 

しかし、曹操軍の水軍を任された蔡瑁(元劉表の部下)の統率力は見事なモノであった為、周瑜は蔡瑁の対応に悩まされました。ちょうどそんな時、曹操の元から旧友の蒋幹が周瑜の元へ訪れるのです。

 

どうやら曹操は、周瑜の元親友である蒋幹を使って自身を抜こうと画策しており、それを見破った周瑜は蒋幹を宴席に招き泥酔させ、逆に蔡瑁が反乱を画策しているという偽った偽書を自ら作って、自が寝ている隙に蒋幹に盗ませました。

 

そしてその偽書を持って曹操の元に帰還した蒋幹は早速そ偽書を操に見せ、怒り狂った曹操は蔡瑁を殺してしまいす。

 

蔡瑁処刑されるの報せを聞いた周瑜は「してやったり」と。

 

この蔡瑁の死により曹操軍では、水軍ど素人の于禁が後釜に座った事で水軍での能力が極端に弱まり、周瑜に有利な状況を生み出してしまいます。この偽りを後で知り周瑜に見事謀られた曹操は大いに怒りさらに策を弄します。

 

その名も「埋伏の毒」

 

誤って殺された叔父の蔡瑁の仇撃ちと称して、曹操倒す為に蔡和・蔡中を呉に偽装投降させます。叔父が殺されたことで呉はこの2人を信用するだろうという曹操の思惑によるものでした。しかし、これも見破った周瑜はそのままこの2人を利用してしまいます。呉の重臣である黄蓋と周瑜の仲をわざと不仲であるように蔡和・蔡中に見せ、黄蓋を曹操に偽装投降させる計画を実行します。

 

黄蓋の投降を受けた曹操は、始めこそ疑いましたが和・蔡中の手紙を見て周瑜と黄蓋の不仲を知ったので、黄蓋の投降信用して許可してしまいます。さらに、周瑜は当時客人として呉に滞在していた諸亮と並び称される龐統に協力をお願いし、龐統は「連環の計」と称し曹操軍の船と船を鎖で繋ぐように仕向け、火を用いた際に他の船に燃え移り火が広がるように細工しました。

 

連環の計が発動する流れとしては、曹操は元々賢人大切にする性格なので、龐統の来訪に喜んでしまいます。そして仕官を促しましたが龐統がこれを拒んだ為、せめて意見だけでも聞こうと試み、ちょうど船酔いが酷く士気が乱れている事に困っていた為それをを龐統に相談したところ「船と船を繋げれば揺れが無くなる」と龐統に諭され、それを聞いた曹操は納得し連環の計に陥ってしまうという流れになります。

 

赤壁の戦い(決戦)

 

蔡瑁の死・黄蓋の偽装投降・連環の計により全て準備が整ったかに思えた周瑜でしたが、ここであるモノを見逃していた事に気付きます。

 

それは「風向き」でした。

 

いくら火を用いてもその時に向かい風なら呉に被害が及んでしまいます。これにはさすがの周瑜もどうしようもなく落胆してしまいます。そこで1人の男が立ち上がります・・・

 

その者は諸葛亮。

 

彼は過去に奇門遁甲術を学んでおり、自在に風を操る事が出来ると豪語するのです。

 

※正史では諸葛亮が風を起こしたという事実はございません

 

普通に考えれば嘘くさい話ですが元々、諸葛亮の実力を認め怖れていた周瑜はこの話を聞き諸葛亮に託します。そして諸葛亮によって東南の風(追い風)が吹き起こされその風を感じた周瑜はついに開戦を決意します。まずは、偽装投降した蔡和・蔡中を打ち首にし味方の士気を高め黄蓋を予定通りに曹操へ投降させます。

 

曹操は投降してきた黄蓋を受け入れましたが、黄蓋は曹操の陣に深く入った所で一斉に火矢を放ちました。黄蓋の船にはたくさんの火薬・柴・油が積まれておりましたので、火は瞬く間に曹操軍の船に広がっていきます。消そうとしても消えない、船は鎖で繋がれている事もあって曹操軍はどうしようもなくただなされるがままとなる有様でした。

 

そして火が長江を赤く染め始めた時に、周瑜は一斉曹操軍へ総攻撃をしかけ壊滅させ、歴史的大勝利を得事になります。この赤壁の戦いにおいて、曹操軍は実に30万以上の犠牲者と投降者を出してしまうに至り、曹操の天下一への野望も大きく損なわれてしまう事となります。

 

周瑜のもう1つの思惑

 

曹操軍を見事撃ちくだいた周瑜ではありましたが、への追撃を行いませんでした。それは、曹操からの報復を恐れたからです。また、周瑜はその報復の目を劉備に差し向けるために劉備軍に曹操の追撃を依頼します。劉備軍は、まず趙雲に先に曹操を攻撃させ続いて張飛に攻撃させ、最終的には関羽が華容道で曹操を追い詰めますが、昔の温情に付け込まれた関羽は曹操を打つ事が出来ず取り逃がしてしまいます。

 

この壁の戦いの敗戦によって曹操は天下統一への道が大きく頓挫する事になり、この歴史的勝利の立役者となった周瑜の名は天下に響き渡り、後世まで受け継がれていく事となります。

 

そしてここから孫権と劉備による激しい荊州争奪戦へと向かって行く事となるのです( ゚Д゚)