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簡易三国志 呉編 「孫権」 ~孫劉荊州争奪戦と大黒柱周瑜の死~

※目次

孫権と劉備による荊州争奪戦

 

孫権と周瑜は、赤壁の戦いで曹操を破った事によって長年の目標であった荊州を手中にしようと画策します。また、劉備も同じく荊州を欲しがっている事も理解しておりました。そこで周瑜は劉備との荊州所有権について対談し、赤壁の戦いは呉のおかげで勝ったようなモノだと強く主張し劉備に釘を刺します。

 

釘を刺された劉備は軍師である諸葛亮と相談した結果、やむを得ず周瑜の主張を受け止めました。そして劉備を抑える事に成功した周瑜は、孫権から許可を得て荊州の南郡を守る曹仁の討伐に向け出兵します。曹仁との戦において毒矢を浴び重傷を負った周ではありましたが、持ち前の智謀と分厚い攻めで曹仁を潰走させます。

 

しかし、曹仁の潰走によって空になった南郡を諸葛亮の指示を受けた趙雲が占領してしまいます。周瑜はこれを見て激しく怒り「赤壁の恩を仇で返すか」と趙雲を怒鳴りつけます。

 

趙雲は城を譲る気が全くなく、それを見かねた配下の呂蒙が交戦しましょうと周瑜に告げますが、曹仁との戦で疲弊した兵士達では無理だという事で泣く泣く柴桑に引き返します。そしてあまりの衝撃を受けた周瑜は「おのれ!諸葛亮め!」と、ここでを吐いて倒れてしまいます。

 

※演義での周瑜は傲慢で自信過剰であり、自分が一番でないと気が済まない性格であった為、自分の上をいく諸葛亮が許せず強いライバル心を抱いてしまう

 

そして南郡を得た劉備は、そのまま襄陽も攻め取ります。この報せを聞いた孫権は納得がいかず、魯粛を使者として劉備に向かわせ荊州の返還を求めたが諸葛亮から予め対応策を聞かされていた劉備は「亡き元荊州牧の劉表殿の嫡子である劉キ殿は未だ健在で、荊州は劉キ殿のモノでございます」と答えてきたので、魯粛は言葉に詰まったが劉奇が病身で余命幾何もない事を知っていた為「劉キ殿がお亡くなりになった場合は呉に荊州を返還して下さい」と劉備に告げ呉に帰還し、それを聞いた孫権はしぶしぶ承諾します。

 

そしてこの隙に劉備は、さらに南下して荊州南部の4郡である長沙・武陵・零陵・桂陽を攻め取り荊州のほぼ全域を手中に収めます。そして、程無くして劉キはあの世へ逝ってしまいます。劉キの死を知った孫権は、再び魯粛を使者として劉備に荊州返還を迫りますが、今度は「漢朝再興の為未だ力が充実しておらず、益州を攻め取ったらその時に変換致す」劉備と諸葛亮の実印付きの証書を持って答えてき為、魯粛はそれ以上追及出来ず引き返してしまいます。

 

当時その頃の周瑜は、曹仁との戦で受けた傷が癒えておらず闘病生活を送っておりましたが、魯粛からこの報せを聞いて「キリがない!このままでは一生荊州は呉に変換されない」とし、急いで孫権に書状を渡し、劉備と孫権の妹を政略結婚させ劉備をそのまま建業に閉じ込め、殺してしまおうという作戦を伝えます。当時劉備は50歳、孫権の妹である孫尚香は17歳という若さなので結婚が実現するわけないと周瑜が思いついての作戦でもありました。

 

※周瑜にとって荊州を取る以上に諸葛亮に勝ちたいという思いの方が強かった

 

孫権と劉備の婚姻同盟

 

周瑜の作戦を聞いた孫権は、張昭と魯粛に相談しどちらも周瑜の作戦に賛同した為、婚礼の使者を劉備に遣わします。婚礼の使者を迎えた劉備は、関羽や張飛等に断るよう説得されたが、曹操を打倒する為には孫劉連盟は維持しなければならないとし、趙雲を自らの護衛にして建業に向かいます。

 

諸葛亮も周瑜の策略と分かっていただけにどちらかと言えば関羽と張飛と同じで断って欲しかったが、内心では孫劉連盟は必ず維持したかったので劉備の考えに同調します。

 

そして、ここで奇跡が起きてしまいます。

 

33歳も離れた劉備との結婚を孫尚香は承諾してしまうのです。さすがの周瑜もこの結果には、大誤算となりあまりのショックでまたを吐いてしまいます。結婚が現実化してしまった以上、劉備を殺す事が出来なくなってしまったので周瑜はここで作戦を変更し、劉備を酒と女で堕落させて建業に閉じ込めその間に劉備不在の荊州を奪ってしまう事にしたのです。

 

呉の美酒と呉の美女も与えます。元々貧乏育ちの劉備は、まんまとこの策にはまり堕落した生活を送っていく事になります。劉備が堕落している間に、周瑜は柴桑に帰り荊州侵攻に向け着々と準備を進めていきます。しかし、諸葛亮から予め策を受けていた趙雲が劉備を覚醒させ孫尚香と共にひそかに建業抜け出したのです。

 

それを知った孫権と周瑜は慌てて劉備に追っ手を仕向けますが間に合わず、劉備を荊州に取り逃がしてしまいます。荊州を取るために政略結婚までさせ劉備を殺すつもりで計画したモノが、同盟が成立した事によりさらに荊州が取りづらくなるという呉にとって最悪の結末を作ってしまった周瑜はさらに病状を悪化させ「孔明(諸葛亮の字)を必ず亡き者にしてやる!」とここでまたを吐いてしまいます。

 

210年、呉の大黒柱周瑜の死

 

時が過ぎ一向に益州への出兵をしようとしない劉に痺れを切らした孫権は、魯粛を使者にして益州への出兵を劉備に促しました。出兵を孫権に催促された劉備は「益州の劉璋は同族である為、攻撃する事が出来ない」と答えてきました。

 

それは前から分かっていた事だろうと突っ込みたくなる場面ですが魯粛はどうしようもなくなり、建業への帰り道となる柴桑に寄って病床の周瑜にこれを相談します。このままでは終われない周瑜は、魯粛の話を聞いては病身を押して最後の作戦に打って出ます。

 

その名も金蝉脱穀(きんせんだっこく)の計

 

※金蝉脱穀の計とは、主に敵から攻撃を受けた際に被害を拡大させず敵に気付かれないよう安全に撤退する方法であるが、この策は敵を攻める際にも使えこの時の作戦の意味合いとしては劉備に気付かれずに荊州に侵入する事だった

 

その作戦とは、一向に益州を攻めようとしない劉備に対して代わりに呉が益州を攻める事にし、そして益州を取った暁に荊州と益州を交換しようという作戦を劉備に提案します。しかし、これはあくまで劉備に向けた表向きの作戦であり、周瑜の本当の狙い荊州を取る事でした。

 

本来呉が益州に向かう際は、荊州を通っていかなければなりませんので、劉備のいる荊州を横切ってい事になります。予め呉が益州を攻めると知っていたら、劉備は警戒してこなのでそれを利用し、気に軍を反転させ警戒していない劉備軍に不意打ちを喰らわせ、そのまま荊州を奪ってしまおういった作戦でした。

 

親劉備派である魯粛は、この作戦を聞いて大いに悩みましたが周瑜の気迫に押され賛同することにし、これを孫権に伝えます。孫権は周瑜の作戦を採用し、魯粛を再び劉備の元へ遣わせ呉が代わりに益州を攻め、益州を取った暁には荊州と益州を交換しようと劉備に伝えます。諸葛亮と相談した劉備はこれを承諾し、呉が出兵した際は兵糧を提供すると約束します。

 

劉備承諾の報を聞いた周瑜は「ついに諸葛亮を欺いたぞ」と大いに喜び、早速荊州攻めの準備を進めます。そして、準備が整い荊州に侵攻した周瑜は軍を突如反転させ劉備のいる南郡へ攻めかかります。

 

しかしここで3方向から予め待ち伏せていた関羽・張飛・趙雲ら3名からによる一斉攻撃を受けてしまうのです。諸葛亮は周瑜の作戦を見破っておりました。そして、不意を突かれた周瑜は成すすべなく大してしまいます。

 

意気消沈し柴桑に引き返した周瑜は、危篤に陥ります。そして、周瑜危篤と知らされた孫権は周瑜を見舞に柴桑まで赴きました。周瑜は孫権に自分の後任に魯粛を推挙し、愛弟子の呂蒙に「魯粛を補佐してやってくれ」と言い残しそのまま息を引き取ってしまいます。享年35歳

 

周瑜は死ぬ間際に「なぜ天はこの周瑜を生みながら諸葛亮まで生んでしまったのだ!」と吐き捨てて死んだそうです。 

 

※演技では、諸葛亮の引き立て役に回った可哀そうな周瑜ですが、史実では温厚で優れた人格者であり赤壁の戦いもほとんどが周瑜の功績であった事で曹操も劉備もその存在に怖れていたし、劉備が荊州を治めたのも周瑜主導のモノとされています

 

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