※目次
曹操の誕生
曹操(字は孟徳)は、155年に豫洲(現在の安徽省)に生まれます。父は宦官(皇帝に使える去勢された男性)の曹騰の養子となった曹嵩で、この出自は曹操のこれからの人生において常にまとわり付いて行く事となります。これからの群雄たちにいっぱい揶揄されます。
また、前漢の功臣でもあり相国でもあった曹参の末裔ともされてますが、真意は定かではありません。
曹操は若くして才知と権謀に優れておりましたが、人1倍独占欲が強かったり人妻が好きという変わった性格の持ち主でもありました。これは後に呂布の妻であった「貂蝉」や「江東の二喬」を側めにしようとしたことでも有名です。
また、後漢の有名な人物鑑定家である許子将に、君は「治世の能臣、乱世の姦雄」すなわち君は平和な時代では、政治家として大いに活躍するが乱れた世では、何をするかわからない野心家であることを意味しますが、そのように評価された曹操はこれを大いに喜びます。
このことからでも曹操の性格が少し垣間見えますし革命家は、やはり「普通の人」じゃないなと思います。そして、曹操が20歳になる頃には首都洛陽の警察官に任命され悪者達を多いに取り締まっていました。当時の漢王朝は、官僚の賄賂であったり汚職であったりと政治が乱れに乱れ切った時代であり、まさしく「後漢末期」といえるくらいの有様だったのです
国が乱れれば必ず災いが起こる・・・
そして、不平不満の溜まった民衆達が一斉に蜂起します。
ここで「黄巾の乱」が発生!
太平道という宗教を興したカリスマ「張角」を中心に、各地で一揆が発生します。妖術だのなんだのと胡散臭い部分がただありますが、当時の腐敗しきった漢王朝は鎮圧に悪戦苦闘しました。洛陽の警察官であった曹操は、もちろん朝廷側の人間になりますのでこの黄巾の乱の鎮圧に参加します。そして将軍の皇甫嵩や朱儁の下で大いに活躍し、その功績が認められ「西園八校尉」という位を朝廷から授かります。同じくしてこの位に付いた人間に、後のライバルとなる河北の「袁紹」や烏巣焼き討ちで失敗した「淳于瓊」等がいます。こちらの2人を含め許攸なんかも黄巾の乱以前から友人であったという説もあります。
そして張角の病死等もあり、黄巾の乱の勢いが弱まり曹操達は鎮圧に成功し、黄巾の乱はここで終焉を迎えます。ただ、腐りきった朝廷では賄賂を送った人間ばかりが評価され、そうでないものは例え抜群の功績を打ち立てても評価されないという有様でした。その腐敗した政治の中心にいたのが10人からなる宦官集団「十常侍」でした。ここで、その十常侍達を粛正しようと1人の人間が立ち上がります。
それは、元豚肉屋の何進大将軍
何進は元々豚肉屋の亭主で妹が皇帝の妃となったことにより前代未聞の大出世を成し遂げた人物です。出自からも想像出来るように兵法に通じているとはとても思えず、結局十常侍達を粛正するどころか話が十常侍達に漏洩したことにより、部下の諫めも聞かず逆に殺されてしまいます。ちなみにこの何進の傍で仕えていたのは袁紹と曹操になります。この2人は、何進将軍暗殺と聞くやいなや迅速に兵を興し十常侍達を皆殺しにします。
ここまではよかったのですが・・・ここで袁紹さんがやらかしちゃいます。
新しい大将軍に西涼の「董卓」を推薦し、洛陽に招聘する事を袁紹が提案したのです。荒くれもので悪名高き董卓をです。この提案にはさすがの曹操も猛反対し、袁紹を諫めましたが聞く耳持たずほぼ袁紹の独断でこの提案が遂行されました。また、曹操と袁紹の中に完全なる亀裂がうまれたのもこの時でした。以後、曹操は袁紹を小人とみなすようになります。
結果、朝廷も皇帝も董卓に乗っ取られ、自身は相国になり政治も自分の思うがままにし、暴政を振るいました。金銀財宝はほとんど私財にし、後宮には美女1000人を集めたり、讒言するものは卑劣な刑罰(牛裂き等)を処す等、地獄絵図そのモノでした。中には、こんな董卓を擁護する説(実は政治能力はあった等)もあったりはしますが、董卓の末路を考えるとその真偽は薄いかなと思います。
このような人間が出てくれば世間は黙っておりません。古くから朝廷に使える司徒「王允」を中心とした董卓抹殺レジスタンスが結成されます。曹操もその中に加わります。何がきっかけは定かではありませんが曹操は董卓に非常に可愛がられ、寝室の入室も曹操には許可する程でした。それを利用し、曹操は董卓の寝首をかくことを王允に提案します。王允はその案を採用し、伝家の宝刀「七星宝刀」を曹操に託します。しかし、曹操は董卓の暗殺に失敗し逃げてしまいます。
可愛がった曹操から裏切られた董卓の怒りようは、すさまじいモノがあり曹操を必ずひっ捕らえよと追っ手を差し向け、指名手配(似顔絵)もします。
絶対絶命の曹操・・・。
陳宮との出会い
洛陽を離れ路頭に迷い、時には変装もして難を逃れた曹操ではありますが指名手配(似顔絵)までされると、さすがの曹操も逃げ切る事叶わず捕まってしまいます。その後、牢へ護送され投獄された時の刑務官が「陳宮」でした。
元々、曹操は天下を正したいという大きな大志を抱いていたので曹操は陳宮に自分の志を説き、それに感化された陳宮は曹操と志を共にする事を誓い、これからの行動を共にすることとなります。
ちなみに私は三国志の中でこの曹操と陳宮の交わりが大好きでした。三国志全体の中で、この2人の交わりはめちゃくちゃ短い時間ではありましたが、2人で何を話してたんだろうとか2人の行動が男心を擽りました。自分も罰せられる事がわかっているにも関わらず、牢獄から解き放った陳宮とその行動を起こさせた曹操の言動。お互いの熱き思いがぶつかり合った!良い場面ですね。
ただ、あまりにも結末が悲しい・・・。
やはり人間は十人十色で「合う、合わない」「共感できる、できない」が必ずありますよね。というのはこの2人の関係がすぐ終わってしまうからです。それは、2人で牢獄から抜け曹操の生まれ故郷である豫洲からほど近い陳留という場所で旗揚げを誓う前に、曹操の叔父の家に寄った時の話になります。
脱獄はしましたが、曹操の追っ手がなくなったわけではなく以前追われ続けている曹操でしたが、この叔父は曹操の信頼厚く決して自分を売ったりはしないという事で、叔父の家で宿を取らせてもらう事となりました。実際、叔父はとてもやさしくて曹操をかくまってくれました。
そんなある日、叔父の付き人達が曹操にもてなす料理に豚肉を使おうとして豚を殺そうとした時に「豚を殺せ」と付き人同士でやり取りされた言葉を曹操と陳宮は「自分達を殺せ」と誤って聞き間違いし、この付き人達を殺してしまいます。
後に豚を見て過ちに気付いた2人でしたが、時すでに遅く叔父に合わせる顔もなく、叔父の家から無断で立ち去ろうとします。そして立ち去ろうとした時運悪く外出してた叔父が家に帰ってきました。そこで陳宮は真実を話し叔父に謝ろうと曹操に告げましたが曹操は、とっさに腰から剣を抜きお世話になった叔父を殺してしまいます。
ここで陳宮ドン引き( ゚Д゚)
陳宮は「なぜ殺したんですか?」と曹操に問いただすと・・・。
ここで、曹操の名言が炸裂しちゃいます。
「我 人に背けども、我、人に背かせじ」
すなわち自分が人に逆らうのは良いが、人が自分に逆らうのは許さないという意味でした。
ただのわがままですね。陳宮もこれにはさすがに呆れて言葉を失います。
そして、迎えた夜に何も無かったかのように殺した叔父の家で平然として寝る曹操を見て「私はとんでもないモノを生かしてしまった」と後悔し、曹操をその場で殺そうとしますが、結局殺しても自分の行いを否定するだけになってしまうので、結局曹操を殺さずに生かしておいて自分自身は曹操との決別を誓うとし、その場を立ち去った事で2人の関係はここで消滅する事となってしまいます。
なんか切ないですね~
そして、これから来る陳宮の最後も切ない(後に記事に載せます)
簡易といいながらも話は長くなりましたが、それほど曹操と陳宮の交わりに熱いモノを感じました。これも三国志の醍醐味である「人間ドラマ」の1つと言えるのではないでしょうか( ゚Д゚)
※魏編「曹操」の次記事