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色んなアンサー

筆者であるnaoraouが色んな分野に挑戦し、私なりの答えを出していくブログです!

簡易三国志 魏編 「曹操」 ~劉備の漢中侵攻と曹操の最後~

※目次

219年、劉備に漢中を奪われる

 

夏侯淵が守る漢中に劉備軍が進軍してきました。

定軍山に陣を敷いた夏侯淵は、劉備軍の主将である黄忠を迎

え撃つが黄忠の参謀として随軍していた法正に翻弄され苦戦

を強いられます。そこで、夏侯淵はたまらず曹操に援軍を乞

いますが、曹操は「妙才(夏侯淵の字)に期待する」とし、

夏侯淵に全てを委ね、動こうとしませんでした。

 

元々夏侯淵は、急襲を得意とする攻撃型の人間であり、守備

には不向きでした。また曹操の期待に応えたいが為に焦りが

募り、結果黄忠に打ち取られてしまいます。一族である夏侯

淵を打ち取れた曹操は、激しく怒り40万の大軍を率いて劉

備に決戦を挑みますが諸葛亮の策にはまって劉備軍に大敗

てしまいます。また、追い打ちをかけられた曹操は、息子の

曹彰の助けもあって何とか一命を取り留める有様でした。

 

もはや、劉備は漢中を手にしたことにより、荊州と益州と合

わせて曹操に対抗出来る1大強国にのし上がり、この度曹操

を漢中にて打ち破った事によりその勢いは天を突き抜ける程

であり、曹操を今にでも飲み込んでしまうくらいでした。

さらに弱った曹操を追い込むかのように劉備はここで魏王の

曹操に対抗して自ら「漢中王」を自称します。

 

劉備が漢中王に就いた知らせを聞いた曹操は、怒り狂い「あ

の百姓出の田舎者が!」と言葉を吐き捨てます。歴史を振り

返ってもこの頃の劉備軍は最大の全盛期でした。

しかし、ここである男が曹操を助け劉備の全盛期を打ち砕い

てしまいます。

 

その名は後の諸葛亮のライバルとされる司馬懿です。

 

そして劉備の全盛期を打ち砕いた要因とは、荊州を預かる関

羽が、劉備大勝の報せを聞いて勝手に曹仁の守る樊城に向け

出兵してしまうのです。

 

 

司馬懿は曹操に「もはや形成は劉備に逆転されました。ここ

は呉の孫権に使者を遣わし荊州を守る関羽の背後を襲わせま

しょう」と孫権との同盟を提案します。当時有頂天だった劉

備軍は、この司馬懿の発言により組織が崩れてきます。

 

関羽の死

 

当時劉備と同盟関係にあった孫権ではありましたが、以前か

ら荊州の所有権をめぐって劉備と諸葛亮と論争しておりまし

た。しかし、何かにつけ呉は諸葛亮に上手く丸めこまれ微妙

な空気が呉と蜀を覆っていました。この事は、曹操も司馬懿

も知るところであり、司馬懿の頭の中ではこの同盟にも付け

入る隙があると以前から考えておりました。

 

そして、漢中で曹操に大勝した報せを聞いた荊州の関羽は幕

僚の馬良の諫めを聞かず、勝手に曹仁の守る樊城へ出兵しま

す。関羽は元々自分の武勇に驕り傲慢であり、人を見下す性

格があった為諸葛亮はずっとそんな関羽の性格を心配してお

りました。この関羽の勝手な行動が今後の蜀を大いに狂わせ

てしまう事になります。

 

曹操は司馬懿の進言通り呉に使者を送りますが、呉が動こう

としません。そこで曹操からまず行動し、于禁を総大将、副

将に龐徳を任命し、樊城の援軍に向かわせます。

呉はずっと荊州出兵への機会をうかがっておりました。そこ

で関羽の動向を探る為、関羽に婚礼の使者を送ります。

関羽の娘と孫権の息子を結婚させようと。そしたら関羽から

信じらない返答が返ってきました。

 

「虎の娘を犬の子に嫁がせる事は出来ん」と。

 

これを聞いた孫権は、発狂し呂蒙に関羽打倒を命令します。

関羽・・・阿保ですよね。てか見下し過ぎでしょ(笑)

ちょうど関羽は、援軍に来た于禁と龐徳を水攻めによって

撃破し、ドヤ顔になっていた事もあったのかも知れません。

 

結果、関羽は後に駆け付けた第2の援軍である魏の徐晃と呉

の呂蒙による挟撃に敗れ、息子の関平と一緒に呂蒙に捕らえ

られ打ち首にされてしまいます。これをきっかけに蜀と呉の

関係は破綻し、後に国力を大いに消耗する蜀と呉の大激戦へ

と繋がっていく事になります。

 

220年、曹操の最後

 

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曹操は、昔から激しい頭痛に襲われる持病を患っておりまし

た。そしてまた頭痛に襲われ病に伏してしまいます。それを

見た息子の曹丕は呉で有名な華佗を呼び寄せ曹操の治療に専

念させます。華佗は曹操の症状を見て脳を手術しなければな

らないと話し、それを聞いた曹操はビビります。

 

そこで華佗は以前龐徳との戦いで腕に毒矢を浴びた関羽を手

術で治した実績を話すと、曹操の態度が豹変します。

曹操「さては、お主!関羽の仇討ちを目論んでおるな」と。

この曹操の発言にあくまで医師としての正義を主張しました

が受け入れられず、曹操に殺されてしまいます。

 

悲しいですね・・・。まぁ時代が時代だから疑っても無理が

ないのかもしれませんが・・・。

 

そして、曹操の病はさらに重くなり自身も死期を悟ります。

息子の曹丕を枕元に呼びよせ自らの後継者として指名し、言

葉を言い残します。

 

「曹家の家長として家族を大切にせよ」と。

 

続いて・・・。

 

「司馬懿を重用せよ。司馬懿の助け無くては諸葛亮に対抗で

きない。ただ、それと同時に司馬懿は人の下につくような人

間ではないから警戒を怠るな」と曹丕に言い残します。

 

※後に司馬懿はクーデターを起こし、孫の司馬炎が魏を滅ぼ

 し晋を建国するので曹操の予言が的中してしまいます

 

曹丕は曹操の言葉をしっかりと胸に刻み、しばらくして曹操

は没します。

       ~曹操孟徳、享年65歳

 

戦時であるから喪に服す時間を短くし、墓には金銀を入れて

はならないとしました。そして死後、曹丕が皇帝になると

祖武帝と追号されます。

 

一介の将から始まり、やがては天下に後一歩の所まで昇り詰

めた曹操は、まさしく千年に一度生まれるか生まれないかの

「風雲児」であったと言えます。

その類まれなる知略と武略を発揮し、三曹(曹操・曹丕・曹

植)と呼ばれる詩人としても名を馳せました。

 

曹操の作った詩にこんなモノがあります。

 

「酒にむかいてはまさに歌うべし人生は幾何ぞ・・・」と。

 

以下私なりの和約にはなりますが・・・。

 

酒を飲むときは歌うしかないじゃないか。だって人生て短い

でしょう。いたずらに毎日が過ぎていき過ぎて行った日々は

元に戻らない。悲嘆にくれるばかりで、どうしようもできな

い。いずれかは死ぬんだから。考えててもどうしようもない

なら酒でも飲んで酔っ払って気分をごまかすしかないでしょ

う。

 

という事です。

この詩には、あの司馬懿も魯粛も感銘を受け、事実愛して

ました。

 

やっぱり人間なら誰でもこの人生というモノに疑問を見出し

てしまいますよね。だって答えがないですからね( ゚Д゚)