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色んなアンサー

筆者であるnaoraouが色んな分野に挑戦し、私なりの答えを出していくブログです!

簡易三国志 呉編 「孫権」 ~夷陵の戦いと石亭の戦い~

※目次

孫権呉王に就任と夷陵の戦い

 

荊州を劉備から奪った孫権は、曹操の後を継いだ曹丕に接近

しました。魏を建国した曹丕の皇帝就任を認め、形だけ臣下

の礼を取り曹丕から呉王・大将軍の地位に封ぜられ魏との友

好関係を築きます。また、劉備も曹丕の皇帝簒奪に対抗し、

自ら蜀漢として皇帝を自称しました。ちなみに、劉備が皇帝

に即位し最初に口にした言葉は「呉の征伐」であると。

 

そして、呉が怖れていた事が現実化してしまいます。

222年諸葛亮や趙雲ら重臣の反対を押しのけ、ついに関羽

の仇討ちと孫権討伐を名目に劉備が75万の大軍を引き連れ

東征を開始します。

 

劉備東征の報せを聞いた呉は、混乱に陥りさすがの孫権もこ

れには狼狽し、荊州の返還を理由に劉備に和議を申し入れた

り関羽を裏切った傅士仁・麋芳や劉備と同じく呉の討伐に燃

えていた張飛を寝首によって殺害した范彊・張達らを劉備の

元へ送りましたが、劉備の闘志は凄まじく「荊州は力づくで

取るまでだ。4人は斬首して弟達(関羽と張飛)の墓前にお

供えしろ」と孫権の要請に全く耳を傾けようとしません。

 

追い詰められた孫権もこれにはやむを得ず、一族の孫桓を総

大将に任命し兵5万を与え劉備を迎え撃たせます。

しかし、劉備の勢い凄まじく孫桓はあっという間に蹴散らさ

れ夷陵城に逃げ延びる有様となりました。孫桓の敗北を聞い

た孫権は焦り、援軍として韓当・周泰・甘寧と呉の古参の宿

将達に10万の兵を与え、この3人に全てを託します。

 

援軍として駆け付けた韓当・周泰・甘寧も蜀の五虎大将軍の

黄忠の罠にかかり、黄忠を打ち取る事は出来たモノの甘寧が

戦死し、兵も七割以上失うという結果に終わります。

全てを託した韓当・周泰・甘寧の敗北を聞いて諦めかけた孫

権に幕僚の闞沢がある人物を推薦します。

 

その名は「陸遜」

 

陸遜といえば呂蒙が関羽を討伐した際に、呂蒙に入れ知恵し

て呉に勝利をもたらした人物ですが、呉の中では地位や名声

が低く呂蒙が病死した後も1書生として慎ましく生活してお

り全く目立つ人物ではありませんでした。ただ、孫権は以前

呂蒙から「陸遜は天下の奇才」と聞かされていた事を思い出

し陸遜を大都督に任命し全てを掛けてみることにしました。

 

劉備軍に打ち負かされ亀のように引きこもっていた韓当・周

は、大都督の陸遜が援軍として駆け付け初めて顔を合わせ

ると陸遜を馬鹿にし軽んじてしまいます。戦地に付いた陸遜

は、早速蜀の布陣を見て持久戦を主張し戦機を伺う方針にで

ます。

 

この方針に納得のいかない韓当・周泰は、陸遜の命に従わず

勝手な行動を取るようになり、挙句の果てには勝手に出陣す

るまでに至り、結果蜀に敗北し両名は陸遜に殺されそうにな

りますが、今後は勝手な行動は慎むとし両名は一命を取り留

める事になります。

 

ひたすら守りに徹する陸遜に劉備も攻めあぐね時間だけがい

たずらに過ぎていきました。そして、夏を迎えた頃劉備軍で

猛烈な暑さと遠征による兵士達の疲れにより疫病が流行っ

てしまいます。これを見かねた劉備は、暑さ対策の為少しで

も涼を取ろうと陰が出来る木の下や茂みに陣を移しました。

 

陸遜はこれを待っていたのです。

 

劉備軍が陣を移す報せを聞いた陸遜は、天に向かって「これ

で蜀を撃退出来る」と言い、早速火薬・油・柴等を用意させ

軍議を開き「劉備を生け捕れ」と皆に合唱させます。そして

劉備軍に一斉に火攻めで襲い掛かりありとあらゆるモノを燃

やし尽くし、劉備軍も今まで殻のように閉じこもっていた呉

軍の来襲と凄まじい火攻めにより大混乱に陥り潰走してしま

います。

 

命からがら白帝城に逃げ込んだ劉備ですが、この戦で劉備軍

の全盛期であった戦力の8割以上を失うという大惨事に至り

近くまで手繰り寄せた漢朝再興の夢も大きく離れていってし

まう事になりました。そして、劉備は敗戦による心痛で倒れ

そのままあの世へ逝ってしまいます。享年62歳。

 

孫権はこの戦に勝利した事で、荊州の領有権を蜀に完全に認

めさせ、劉備の意志を引き継いだ諸葛亮により孫劉連盟の復

活も実現する事になります。

 

魏からの侵攻

 

蜀を撃退し呉に平和が訪れたのは束の間、友好関係を築いて

いた魏が突如裏切り3方向より呉に来襲してきたのです。

陸遜も蜀の討伐を逸る韓当・周泰をよそに、曹丕の動きが気

になるので全軍をまとめ荊州に帰還します。この陸遜の機転

が功を奏し荊州で曹休を撃退する事に成功し、濡須口でも

桓が曹仁を撃退する事に成功します。また、魏の陣中の中で

疫病が流行った事もあり魏軍は撤退します。

 

224年、今度は曹丕直々に呉に40万の大軍で来襲してき

ます。陸遜は荊州にいて身動きが取れない為、孫権は徐盛を

総大将に抜擢します。そして、徐盛は長江沿岸に偽の城壁を

築き魏軍を困惑させ、呉の備え十分と見た曹丕は前回の敗戦

の教訓もあって戦わずして撤退します。

 

続いて、魏の来襲に呼応した交州の士徽が反乱したので、孫

権は呂岱を派遣し鎮圧に成功します。226年曹丕が死んだ

事によりこれを好機と見た孫権は自ら江夏に進軍し、諸葛瑾

は襄陽に進軍と2手に分かれて魏領を攻めましたが、司馬懿

の策略にかかり敗退してしまいます。

 

石亭の戦い

 

228年、呉の重臣の周魴が魏の曹休の元へ偽りの投降をし

ます。周魴は20年以上も呉に仕える重臣で当時曹休の参軍

として随軍していた司馬懿と賈逵はこの偽りの投降を見抜い

ておりましたが、曹一族で大司馬であった曹休はプライドば

かり専攻していて臣下を見下しており、忠言を聞き入れよう

ともしませんでした。

 

結果、裏で陸遜とやり取りしていた周魴の罠にはまってしま

いまんまと石亭に誘い込まれ、陸遜・朱桓・全ソウの前に兵

の半数以上を失うという大敗を期してしまいます。

 

司馬懿・曹真ら共に、臨終の曹丕に息子の曹叡を補佐してく

れと頼まれていた曹休は、この敗戦の後深い心痛に襲われ背

中に大きな腫物ができ、その傷が破傷風となってこの世を去

ってしまう事になります。