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色んなアンサー

筆者であるnaoraouが色んな分野に挑戦し、私なりの答えを出していくブログです!

簡易三国志 呉編 「孫権」 ~誕生から孫策の小覇王まで~

※目次

 

孫権(字は仲謀)は、182年に孫堅の次男として生まれま

す。2年後、父である孫堅は後漢の中郎将であった為、「黄

巾の乱」の鎮圧に中央へ招集されます。残された兄の孫策と

孫権はろ江に移り、そこで知り合った孫策と周瑜が意気投合

し家族ぐるみで周瑜の家に居候します。

 

※この時に孫策と周瑜が出会い、親交を深め義兄弟となった

 とされます

 

ちなみに余談ではありますが、この若き孫策と周瑜の最強コ

ンビは数ある三国志の物語の中でベスト3に入る程、私は好

きでした。これも曹操と陳宮程ではないにしろこのコンビの

躍動期間が短かった事が悔やまれます。

 

191年、父孫堅の死

 

武勇に優れ「江東の虎」と恐れられた父孫堅が反董卓連合に

加盟し、その先鋒を務め汜水関にて華雄と激突しました。苦

戦を強いられ敗走した孫堅ではありましたが、劉備の義兄弟

である関羽の助けもあって連合軍は汜水関を制圧します。

 

※史実では、孫堅が華雄を撃破

 

兵站を担当する袁術による物資の供給拒否によって、武器、

兵糧不足に陥った孫堅は、華雄との戦で不本意な退却を余儀

なくされ納得のいかないまま火の海と化した洛陽に一番乗り

を果たします。

そしてたまたま拾った朝廷の玉璽(皇帝になる時に必要な印

鑑)を手にした事で、孫堅の運命を決めてしまう事になりま

す。

 

玉璽を手にした孫堅を袁術の間者が目撃してしまうのです。

孫堅は袁術の兵站への不満や連合が烏合の衆の集まりといっ

てよい程、まとまりがない事を感じ嫌気が指していた時に、

玉璽も手にした事で、連合の脱退を盟主の袁紹に申し入れま

す。袁紹は引き止めますが、孫堅は頑なにそれを拒否しほぼ

強行するような形で連合を脱退します。

 

孫堅が玉璽を手にした事を知っていた袁術は、それを袁紹に

告げ荊州の劉表に孫堅討伐を命令します。

そして、その命を受けた劉表は部下の黄祖に孫堅への攻撃を

命じ、谷で待ち伏せし孫堅を弓にて射殺します。

 

孫堅はこの時まだ36歳。

 

袁術の家来になる

 

若くして一家の大黒柱を亡くした孫権と兄の孫策はしばらく

路頭に迷う事となり、やがては袁術の家来として生きる事に

なります。裏で間接的に孫堅を殺した袁術ではありましたが

孫権と孫策の間では、黄祖が親の仇であると思い込んでいた

為、袁術には普通に接していたそうです。実際黄祖が孫堅を

殺したのですから無理もないと思います。

 

家長の孫策は、袁術の命に従い各地を転戦します。孫策も

くして父に引けを取らない程の武勇の持ち主で狡猾な袁術は

孫策を利用しまくりでした。孫策もどうして良いかわからな

い日々を過ごす中、ある人物が孫策の元へ駆けつけ若き孫策

の目を覚まし決起させ全力で援護します。

 

その人物は、かつてお世話になり義兄弟の契りを交わした

き天才の周瑜でした。

 

194年、兄・孫策と周瑜の再会

 

周瑜は孫策にまず袁術からの独立と、兵の借り入れと孫堅以

来の武将である程普・黄蓋・韓当・祖茂の返還を要求するよ

うに提案しました。

 

孫策は「ケチな袁術がそれを許可するわけがない」と周瑜に

言葉を返しますが、周瑜は「伯符(孫策の字)よ、お前が持

っている玉璽を袁術に渡して交換するのだ」と。

父の形見に変わった玉璽を孫策は「簡単に言うな」と周瑜を

突き放しますが「それはただの石だ。力が無ければ持って

も何も意味がない。まず我らに今必要なのは力だ」と伝え孫

策はこれに納得します。

 

元々袁術が孫策・孫権兄弟を家来にしたのも、この玉璽が欲

しかったからだとされます。そして玉璽を手にした袁術は大

変喜び孫策に5千の兵を貸し与え程普・黄蓋・韓当・祖茂の

帰順を許可しました。

 

こうして力を手にした若き孫策と周瑜の快進撃は、ここから

始まるのです。

 

この時孫策・周瑜共にまだ19歳、そして孫権は12歳。

 

兄・孫策が江東を制覇

 

まず周瑜は、孫策に覇業を成すなら江東の2張を召し抱える

べしと説き、その2張とは後の呉を支えていく事になる張昭

と張紘の事を指していました。孫策はその言に従いこの2張

を説得し配下に加えます。

 

そして、準備が整った孫策と周瑜は195年に江東で挙兵し

揚州刺史である劉繇を攻めます。

孫権も常に孫策に付き従って各地を転戦していく事になりま

す。周瑜の策により劉繇の部下である張英を混乱させ撃破し

続いて劉繇の本拠地である建業に進軍し劉繇を滅ぼし、その

ままの勢いで呉の曲阿へと進軍します。

 

曲阿を治めるは、呉の厳白虎であり孫策を迎え撃つが劉繇を

倒し勢いに乗る孫策に叶わず敗走してしまいます。そして

阿を占拠した孫策はそのまま呉に攻め入り厳白虎も滅ぼして

しまいます。ちょうどその頃の孫権は、呉に名士や賢人が多

い事もありその者らと交流を深める事により、自身の見識と

知識を高める事ができ、またその者らによって孫権の名が瞬

く間に呉に広がった事でそれを知った兄・孫策は、孫権は後

の江東を背負っていく逸材だと確信したそうです。

 

そして、孫策は南下を開始し会稽を治める王朗を攻めます。

王朗に降伏を呼びかけた孫策でありましたが、王朗はこれを

拒否し徹底抗戦の構えで臨んできた為、孫策は王朗を攻める

事にします。最初は善戦していた王朗でありましたが、自力

で勝る孫策軍に次第に押され始め窮地に追い込まれた王朗は

孫策に降伏します。

 

「なぜ、もっと早く降伏しなかったか」と孫策の怒りに触れ

斬り殺されそうになりますが、周瑜の取りなしにより一命を

取り留めそのまま釈放されます。そして、豫章太守にも降伏

の使者を送り、これを降伏させこれにて孫策は江東制覇を成

し遂げるのであります。

 

時にして199年、挙兵してから4年後の事であります。

 

この孫策の電光石火な侵略は場所が江東という事もあり、世

間の間で江東の小覇王(覇王は楚の項羽の事で項羽は会稽出

身)と呼ばれる事となり、世間で怖れられると共に急な侵略

の為に各地の豪族の反発を招く事になります( ゚Д゚)