色んなアンサー

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簡易三国志 魏編 「曹操」 ~劉協(後漢皇帝)擁立と呂布の最後

※目次

父の仇討ち

 

曹操が50万の大軍を連れ徐州に攻めてきた。

 

陶謙陣営は曹操の来襲の報せを受けて大混乱に陥りました。本心ではないにしろ曹操の父を殺してしまったのだから、陶謙も覚悟はしておりました。ただ独力で対応できる相手ではない事は百も承知してたので、陶謙は各群雄に援軍を求めました。

 

しかし、今回の曹操には陶謙に父を殺されたという大義名分もあって周りの群雄達は援軍の要請に応えてくれませんでした。

 

そう、ある者を除いて・・・。

 

周りの群雄達が陶謙を冷たい目で見ている中、当時公孫瓚の元に身を寄せていた劉備だけがここで立ち上がります。自ら公孫瓚に願い出て、陶謙への援軍要請の許可を得ます。

 

勇者が来た!

 

わずかな手勢ではありましたが、勇者劉備の登場に徐州陣営が大いに湧きました。しかし、劉備の健闘も虚しく曹操の苛烈さは目に余るモがあり、要所の1つである彭城はあっさり陥落します。その内容は10万人以上の男女を殺し、その死体で泗水の河を堰き止める程の惨状だったそうです。父を殺された恨みが相当なモノであったことが伝わると同時にこの戦いは曹操の評価を大きく下げる形となりました。

 

そして曹操がこのまま徐州を攻め陶謙を追い詰めようとした時・・・。

 

本国から急使が曹操の元へ参ります。

 

呂布が攻めてきました!

 

この時の呂布には、曹操の元盟友であった陳宮が参謀として仕えており、空になった曹操の城を攻めたのも陳宮の進言によるモノでした。怒りのあまり国を空にして徐州に攻めてたので、ここで曹操は慌てて引き返します。九死に一生を得た陶謙と劉備。幸い留守を預かってた夏侯惇・荀彧・程昱が協力して領土を守っていてくれた為、濮陽を失うだけで済みましたがこの呂布との戦で大半の「青州兵」を失う事となります。その後、濮陽の呂布が兵糧不足に陥った為に、城を維持できなくなり撤退した事によって濮陽も無事に取り戻す事に成功します。

 

一方その頃長安の朝廷では、李カクと郭汜が仲違いし権力闘争を引き起こしたので、劉協(後漢皇帝)はその闘争の隙に長安を脱出し洛陽へ流れつきます。この報せを聞いた曹操の幕僚である荀彧が、皇帝を迎えるべきだと曹操に進言しその意見を採用して皇帝を迎える事を決意します。

 

※ちなみに、この報せは袁紹の元にも届き幕僚の沮授が荀彧と同じことを進言するが、袁紹はその意見を却下します。袁紹さん後に後悔す( ゚Д゚)

 

196年曹操、後漢皇帝を擁立する

 

皇帝を擁した曹操は、各群雄達の1歩も2歩も先に行くことできるようになりました。例えば、兵を動かせば朝廷の軍として出陣できるので大義名分も出来るし、逆に攻められれば敵を朝廷に背く逆賊扱いにも出来るし、官爵も政治も自分次第で思いのままになるという事です。実際、曹操はこの時くらいに3公の1つである司空に任命され将軍職も本来皇帝の親戚以上とされる車騎将軍の位に就いております。

 

※これを後から知った袁紹さんは、大変後悔します

 

ちょうどこの頃に、後の遠征軍に特に必要な屯田制が曹操陣営で実施されます。屯田とは、兵士や軍隊に平時は農業をさせ、戦時は戦場に出るという事で特に土地の荒れた辺境に戦争する時なんかは、自給が難しいので効果を発揮します。日本でいう半農半士に近いモノがあります。

 

宛の張繍討伐

 

長安から離れた人間として皇帝だけではなく張繍もいました。張繍はちょうど洛陽の南に位置する宛という国で独立します。曹操からしてもこの張繍という存在が自分の背後にいる事で、目障りな存在でした。そこで、後顧の憂いを絶つ為にも張繍を討伐しに行きます。

 

張繍も突然の曹操の来襲には、独立したばかりで力が及ばない事もありあっさり降伏してしまいます。曹操としては、このままで終わればよかったモノのここで曹操の欠点が出てしまいます。人妻が好きな曹操は、張繍の叔父で亡くなった張済の未亡人に手を出してしまうのです。それを知った張繍は大激怒し、参謀の賈クの献策で曹操を撃破します。この突然の不意打ちに、曹操もなすすべなく護衛を務める典韋と息子の曹昂をなせてしまいます。

 

怒り狂った曹操は、張繍を猛攻撃しますが張繍は以前から荊州の劉表と同盟を結んでおりその援軍もあって、張繍を討伐すること叶わず涙を呑んで本国である許昌へと引き返します。

 

198年呂布を討伐

 

陶謙が死んで劉備が徐州を引き継いだのですが、の劉備が行き場もなく路頭に迷っていた呂布を自国に招いてしまった事で、徐州を呂布に強奪されるいう事件が起こりました。しかし、劉備のお人よしな性格もあって劉備と呂布の間にはまだ奇妙な関係が続いており、曹操からすれば張繍よりもこの2人関係が一番厄介でした。なので曹操は一旦張繍を諦めこの2人に専念します。

 

そして、参謀の荀彧が献策した二虎競食の計(両者を争わせる)により両者は策にはまり、呂布が劉備の小沛を攻めた事によって完全に2人の関係は崩れてしまいました。そこで曹操は劉備に協力し、呂布を下ヒ城に追いつめる事に成功します。

 

曹操軍は猛然と攻めかかりましたが、守る呂布軍も兵糧も十分にある上に徹底して交戦してくるので、戦も混着状態が続きました。しかし、呂布の陣営では陳宮が外と中で挟み撃ちの提案であったり袁術に援軍を乞う等、呂布に散々進言しておりましたが貂蝉の突然の病気等もあり呂布は動こうとしなかったので転機をみすみす逃し、かえって曹操に好機を与えてしまう形になります。

 

そして、この混着状態を打開すべく曹操の幕僚の郭嘉が「水攻め」を提案します。水攻めをされた城は水浸しになってしまい兵士達の戦意も大きく損なわ呂布陣営に相次ぐ離反者が現れ始め、最終的には呂布も味方に裏切られ捕らえられてしまいます。

 

捕らえられた呂布は、曹操に懇願し1度は曹操も配下にしようと悩みますが劉備が呂布の過去を諭してくれた為、目が覚め呂布を処刑します。

 

「人中の呂布、最後は劉備を罵倒して打ち首にされる」

 

残された貂蝉も曹操を嫌い呂布の後を追います。

 

呂布軍の第一の武将である張遼は、関羽の勧めもありこの時に曹操に帰順。この張遼は、後に魏の5大将筆頭になります。

 

呂布軍の第二の武将である高順は、降伏せずあっさりと斬首されます。

 

そして最後は盟友であった陳宮・・・。

 

曹操は最後まで泣きながら陳宮を説得しました。「考え直してくれ、公台(陳宮)よ」と。そして、陳宮は「それは無理だぞ、孟徳(曹操)よ」と。

 

曹操は陳宮の子供の事にまで触れました。

 

「お前(陳宮)が死んだら幼い子供はどうなるんだ」と。陳宮は「案ずるな!お前(曹操)が最後まで面倒見てくれるはずだ」と。

 

結局最後の最後まで陳宮は首を縦に振らず、曹操に斬首されます。この場面は私の中でも三国志の名場面ベスト10に入ってます。また、この後の陳宮の子供はどうなったかはわかりませんが、この曹操ならきっと面倒をみてくれたのではないかと思えるそんなシーンです( ゚Д゚)

 

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