※目次
曹操暗殺計画
呂布を滅ぼした曹操ではありますが、領土を持たない劉備をこの先どうしたらよいモノかを悩んでおりました。というのは、以前から曹操は劉備の人を引き付けるカリスマ性やその人徳に恐れを抱いておりました。この劉備をめぐって幕僚の荀彧・郭嘉・程昱の意見も分かれてしまいます。
実は劉備と劉協(後漢皇帝)は、これが初対面であり劉協はこの対面で劉備の血統(後漢の中山靖王劉勝)の末裔と初めて知る事になり、これを大いに喜びました。劉協は、劉備が自身の叔父にあたるとして劉皇淑と呼び、位も漢の左将軍に任命しました。そして、内密に自身の胸中(曹操の操り人形)として扱われている事を劉備に涙して訴え、重臣の董承と協力して曹操の打倒(曹操暗殺計画)を命令します。
徐州で劉備が曹操から独立
今の力ではどうする事も出来ないとわかりながらもなんとかして皇帝をお救いしたい劉備はまずは地盤が必要な為、曹操からの独立を画策します。ちょうど寿春の袁術が皇帝を自称していたので、逆賊討伐を名目に皇帝と曹操に提案します。劉協は快く賛成し曹操もこの案には偽帝袁術討伐という大義名分がある為、しぶしぶ賛同しました。
そして、劉備は袁術を討ち果たす事に成功し、そのまま徐州で独立します。その頃、曹操暗殺計画が露見した為重臣の董承が処刑され、その計画に劉備が連判していた事を知った曹操は大激怒します。徐州で劉備が独立した事を知って、曹操はさらに怒りをヒートアップさせ、猛然と劉備のいる徐州へと襲い掛かります。
この曹操の猛攻に圧倒され徐州はあっけなく陥落し劉備も関羽と張飛と離れ離れになってしまい、消息が分からなくなってしまいます。そして、残された関羽も抵抗を試みますが、ここで曹操の悪い欠点が出てしまいます。独占欲の人1倍強い曹操は、以前から関羽を配下にしたいと思っていたので関羽に降伏を呼びかけました。関羽の劉備に対する忠誠心を知っていた重臣達はそれを諫めますが、曹操は聞く耳持たず関羽の親友でもある張遼に関羽を説得するように命じました。
関羽の降伏
関羽は張遼の説得を頑なに拒否し討ち死にを覚悟しましたが張遼がここで3つの過ちを関羽に指摘しました。
1、桃園の誓いの時に、劉備・関羽・張飛は死ぬ時も同じと決めた事で関羽が死んで劉備がもし生きていたらこの誓いを破ってしまうという事
2、死んでしまったら城に残されている劉備の奥方はどうなるのか
3、漢朝再興の大志を掲げながらまだそれがなされてない事
関羽はこの3つの過ちを聞き、大いに悩みました。
そして、この3つの条件を呑んでくれるなら降伏すると張遼に告げます。
1、曹賊に降伏するのではなく、漢に降伏するという事
2、劉備の奥方への保護を約束する事
3、劉備の生存が確認出来次第、いかなる理由であれ自身は劉備の元へ馳せ参じる事
曹操は、この3つ目の条件には賛成しなかったが後になればどうにでもなるだろうという事でこの3つの条件を承諾します。そして、曹操陣営に加わった関羽でありますが、曹操の関羽への寵愛ぶりは目に余る程だったそうです。毎日のように関羽と酒を飲み、ありとあらゆる金銀財宝を贈与しさらに亡き呂布が愛用していた「赤兎馬」まで関羽に与えてしまうくらいでした。
そして、劉備を滅ぼす事に成功した曹操はこれにて中原をほぼ手中に収める事となりました。河北でも袁紹が公孫瓚を滅ぼし、冀州・青洲・幽州・へい州の4州を抑え河北で1大勢力を築き、勢いが盛んです。この群雄割拠を代表する2大勢力がぶつかり合う事は、時間の問題でした。
三国志3大戦役の1つ「官渡の戦い」
時は200年・・・
ついに袁紹が約70万という大軍を率い、曹操に宣戦布告します。曹操陣営も張繍が降伏してくれた事により、負担が減った事もあって袁紹に全力で挑む事を決意しますが、兵力は5万前後と圧倒的に不利な状況でした。
官渡の戦い前哨戦
袁紹は、猛将顔良に先鋒を命じ、白馬津を攻めました。顔良は持ち前の武勇で曹操家臣の魏続と宋憲を打ち取り、曹操自慢の名将である徐晃に対しても自力で勝り、敗走させます。そして、怯んだ曹操軍に猛攻をしかけ押しまくりますが、後から駆け付けた関羽に切り殺されてしまいます。
※1説によれば、当時袁紹陣営に劉備がいて関羽の風貌を知らされていた顔良は、関羽と対面した時に歩みよった所を不意に切り殺されたという説があります
袁紹は、顔良を打たれた事で劉備を殺そうとしましたが、劉備は「関羽が本物かどうかわからない」とし、この場をうまく切り抜けます。続いて、今度は顔良と袁紹軍双璧とされる文醜を延津に攻めさせます。ここで、曹操の幕僚である荀攸が輜重隊を使った囮作戦で文醜をおびき寄せます。武勇一辺倒の文醜はこの策にはまり孤立してしまいます。そこで再び関羽があらわれ文醜を斬り殺してしまいます。
これを見た劉備は関羽と確信し、袁紹も再び劉備を殺そうとしますが劉備は「関羽をこちらに呼び寄せます」とし、袁紹も関羽の実力を知ってますのではこれを許しました。
関羽千里行
劉備はまず関羽に手紙を送り、自身は袁紹を見限り出奔します。手紙を受け取った関羽も劉備の生存を知るや、真っ先に曹操に別れを告げようとしますが曹操は居留守を使います。何度行っても会おうとしない曹操に、関羽は業を煮やし置手紙を残して出発を決意します。
そして、劉備のいる河北まで5つの関所がありすべて強行突破し、邪魔する者はすべて斬り捨てる等、まさしく「戦場の鬼神」たる振る舞いでした。最後に駆け付けた夏侯惇も関羽と一騎打ちをしましたが途中で駆け付けた張遼に止められます。そして、関羽は無事劉備・張飛と再会します。
この3兄弟の再開は三国志名場面の1つと言えます。
そして、官渡の戦い本戦
初戦で出鼻を挫かれた袁紹ではありますが、自力で曹操を圧倒的に上回る為次第に袁紹軍が優勢になっていきます。対する曹操も幕僚の程昱が考案した「投石車」を用い徹底抗戦しますが、味方の兵糧不足の関係もあり、窮地に追い込まれてしまいます。
弱気になった曹操は、1度撤退を考えますが幕僚の荀彧に激励され戦場に残る事を決意し、この決断が後の勝利に結びついていくことになります。袁紹軍は、戦力だけで見ると曹操軍を圧倒しますが官僚達の派閥争いが酷くまとまりにかけてました。というのは、まとめなければいけない袁紹自身が優柔不断で猜疑心が強く、決断力もない「凡庸な君主」であったからです。忠言は耳に逆らうという言葉が特に合う君主と言えます。
例えば、長安から逃れてきた皇帝を迎えるという沮授の発言を無視し後から後悔したり、曹操が劉備を攻めている際に空の許昌を攻めるべしと進言した田豊の意見も息子の病気を理由に攻めなかったり(この時の田豊は、くやしさのあまり杖を叩き割ったそうです)
他にも、まだありますが面白くなるくらいチャンスを棒に振る男でした。実際この性格は、曹操や荀彧等も知っておりましたし官渡の戦いを終えた後にももし袁紹が田豊や沮授の進言を聞いていたとしたら立場が逆転になっていたと言ったそうです。ちなみに田豊は、官渡の戦い前に曹操との戦を猛反対した為獄に閉じ込められます(後に、逢紀の讒言に遭い殺されてしまいます)
そして、官渡の戦いが決する時がきました。
まず、沮授が軍を2手に分けてその1つは許昌を急襲しようという作戦でしたがこれも袁紹さんは安定の不採用で、さらに沮授を獄に閉じ込めてしまいます。また、審配選手が許攸の息子が冀州で略奪を働いたという事で、許攸を弾劾しそれを嫌った許攸は曹操に投降してしまいました。
許攸は曹操に袁紹軍の兵糧は烏巣にありますと進言し、曹操は即断即決で烏巣を襲撃し、兵糧を焼き払いました。そして、兵糧を失った袁紹軍は崩壊し曹操の大逆転という形で官渡の戦いは幕を閉じます。
普通に忠言を聞き入れ戦っていれば勝ててた袁紹。それもまた人間の難しい所でもあり、歴史の面白い所でもあると言えます。やっぱり人の差ってすごいモノがありますよね( ゚Д゚)
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