色んなアンサー

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映画「関ケ原」の見どころ

※目次

 

前回紹介した「追憶」に続いて、岡田准一が主役を務める映となります。こちらの作品は、日本人ならばほとんどの人がご存知だと思われる「関ケ原の戦い」を描いた物語となっております。ゆえに結果をご存知の方もほとんどでしょう。なのでそれをのように表現しているのかに着目したら良いと思われます。

 

歴史を振り返っても、様々な憶測が飛び交うこの戦い・・・。

 

1つだけ確かなのは、石田三成が敗れ徳川家康の時代が到来したという事です。

 

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石田三成を演じるは、岡田准一。そして徳川家康を演じるは、名俳優の役所広司

 

今になってもその生き方に賛否両論が分かれる石田三成んな顔を持つとされる戦国時代最後の切れ者である徳川家康この2人はどのように表現するのか?非常に興味深い作品となっております。

 

<個人評価点>

満足度☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆星8

<記事読了時間>

約4分

 

※1部ネタバレ有り

 

三成に過ぎたる者「島左近」「初芽」との出会い

 

とある寺で秀吉(滝藤賢一)に差し出した「三度の茶」によってその才覚を認められ、秀吉に仕える事となった三成(岡田准一)はやがて豊臣五大老に次ぐ五奉行にまで出世し、豊臣の国政を司る事となります。しかし、人間付き合いの下手な三成は家中での敵対勢力も少なからず存在していました。

 

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そこで「武芸の達人ではない」「戦の経験がほとんど無い」三成にとって「武」という柱の存在が必要不可欠でありました。そんな三成に運命の出会いが訪れます。それは「武」の達人である島左近(平岳大)と伊賀のくノ一忍者初芽(有村架純)と出会っ

た事です。

 

豊臣秀次が自決しその一族郎党も連座の罪で処刑された京都六条河原。そこでの出会いでした。以前から浪人であった左近に目を付けていた三成は、これを好機とし左近の元へ何度も訪れ己の知行の半分と引き換えに召し抱えたのでした。これは、後に「三に過ぎたるモノが2つあり。島の左近と佐和山の城」という故事を残す事となります。

 

また、くノ一忍者である初芽は三成によって処刑を免れた事がきっかけで、以後三成の「犬」としてに情報戦で活躍していく事になるのでした。

 

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豊臣秀吉の死と前田利家の死

 

朝鮮戦争がきっかけで留守を預かっていた三成を中心とする文治派と前線で戦った加藤清正・福島正則を中心とする武断派で対立が深まってしまいます。また、戦争が失敗に終わり国力も大いに損なわれ、それと並行するかの如く秀吉の老衰が加速化してしまいます。

 

そして、1598年関白・豊臣秀吉が逝去

 

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秀吉に息子秀頼の事と後事を託されたのは、徳川家康(役所広司)を筆頭とする五大老と石田三成を筆頭とする五奉行でした。しかし家康に「二心あり」と睨む三成は、家康に匹敵するくらいの力があり五大老の1人で大納言でもある前田利家(西岡徳馬)に近づき家康を牽制しようと画策しますが・・・。

 

その前田利家が秀吉の後を追うかのように死んでしまうので。利家の死で自分を邪魔する勢力が無くなった家康は、こから本性を現していく事となります。

 

武断派達による石田三成襲撃事件

 

利家の死を境に家康は、着々と豊臣恩顧の勢力(加藤清正や福島正則等)に外交を仕掛け友好を深めていき自分の勢力に取り込んでいきます。そんな家康を良しとしない三成は、それを阻止しようとしますが、うまくいきませんでした。

 

そして、以前から敵対していた加藤清正・福島正則ら武断派7人衆に襲撃されてしまいます。初芽の活躍により事前に襲撃の報せを知った三成はここで1計を弄し、徳川家康の屋敷に逃げる事を思いつきます。

 

※初芽はその後大谷吉継の元へ使いとして向かったがその帰り道に家康に属する忍者集団に襲撃され拉致されてしまった事により、三成と離れ離れになってしまう

 

「自分が殺されては計画が頓挫する為、匿ってくれるに違いない」と予測した三成の思惑通り、政敵の急な訪問に戸惑った家康は三成を匿い7人衆を黙らせたのでした。

 

決戦の地・関ケ原に向けて

 

三成は、家康の声がかかっていない残存勢力(5大老の毛利家・宇喜多家・上杉家)と共謀し「打倒家康」に向けて準備を始めていました。またこの頃、上杉家筆頭家老の直江兼続(松山ケンイチ)と対面し、家康を東と西で挟み撃ちにする作戦を計画します。

 

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自国の会津に戻った直江兼続は、後世に残る「直江状」と呼ばれる名文(家康を弾劾)を家康の元へ送り付け、引き付ける事に成功します。そして、兼続挑発に乗った家康は、上杉家討伐に向け出兵します。

 

「家康が上杉家討伐に向け出兵した」との報告を受けた三成は、決戦の地を「関ケ原」に定め片腕の大谷吉継と共に毛利輝元を総大将として「打倒徳川」兵を起こしたのでした。

 

時にして、1600年の秋に差し掛かった9月15

 

両雄激突す( ゚Д゚)

 

※余談

各大名達のパイプ役であり、唯一秀吉に意見出来た男・豊臣秀長(豊臣秀吉の異母弟)が秀吉より先立たず、秀頼の後見を担っておれば家康が天下を取る事も叶わなかったのかもしれません。さらに言えば朝鮮戦争ですら回避出来ていた可能性もあります。まあ少なくても文治派と武断派の分裂は無かったでしょう。

 

豊臣の運命を決定付ける関ケ原の敗戦の1番の要因は、豊臣対徳川ではなく石田対徳川になった事だと私は思います( ゚Д゚)

 

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 ※岡田准一映画の前記事