色んなアンサー

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簡易三国志 呉編 「孫権」 ~濡須口の戦いと荊州の制圧~

※目次

交州の制圧と濡須口の戦い

 

孫権は荊州を一旦諦め、荊州のさらに南部に位置する交州を攻めます。そして歩隲を派遣し、交州を治めている士燮を降させます。これによって荊州の南部である交州を支配下に収めた孫権は、南から劉備に圧力を加える事が可能になりました。

 

しかし、213年に曹操が赤壁の恨みを晴らさんとし、30万の大軍を引き連れ濡須口に攻めて参り、盧江が曹操の手に落ちてしまいます。孫権は、自ら出陣し「土城を築き守備を固めましょう」という呂蒙の提案を採用し、万全の守備網を築いて曹操を迎え撃ちました。予め守備を固めていた孫権に、曹操は攻めあぐね陣中に疫病も流行った事で退却してしまいます。

 

また孫権と対峙した際に、その見事な風貌と采配に感心した曹操は「息子を持つなら孫権のような子が欲しい」と孫権を絶賛したそうです。そして孫権は呂蒙・甘寧を率いて失った盧江の奪還に成功したのでした。

 

ちょうど曹操と孫権が激突しておる中、劉備はついに劉璋を滅ぼし益州を支配下に収める事に成功します。劉備益州制覇の報せを聞いた孫権は、早速劉備と諸葛亮の実印付きの証書を魯粛に持たせ劉備の元へ遣わし、荊州返還に迫りました。

 

しかし、劉備と諸葛亮が今度は漢中を手にしたら必返すと返答してきたので、孫権側としてはこれはもはや詭弁であり約定に背く行為でした。怒り狂った孫権は、呂蒙に命じて長沙・零陵・桂陽を武力で奪ってしまいます。この孫権の行いに劉備も怒り狂い呉と蜀とで全面戦争に発展しそうになりますが、当時呉と蜀のパイプ役であった親劉備派の魯粛がを鎮撫した事により、争いは収まります。

 

215年、孫権の合肥攻め

 

孫権は兼ねてから荊州と同じくらい徐州に目を付けておりました。ただ、再三に渡って魯粛や呂蒙から地の利を考えて徐州は豊かではあるが平地で守り難し、それに比べ荊州は四方に通じ土地は豊かで30万の兵士が養え守り易しと、荊州を優先する事を進められており徐州攻めを反対されてました。

 

しかし、孫権は2人の意見をはねのけ10万の兵を引き連て徐州攻めを強行します。まず徐州を攻めるには、合肥を通らなければなりません。合肥を守るは、魏の名将張遼でした。

 

孫権は、勇猛で知られる父や兄に似て常に自分が先陣を切る事を好み、馬術や弓術にも優れておりました。ただ、張遼の罠にかかった孫権は、相手陣中に深追いし殺されそうになった所を、淩統に助けられる有様でした。また、執拗に追撃を仕掛けてくる張遼に兵の半数以上の死者を出し、孫策以来の武の要であった太史慈をこの戦いで失ってしまう事になります。

 

この敗軍の有様を見て孫権は「何とまずい戦をしてしまったものか」と嘆き、これと同時に張遼の武が呉全体に知れ渡る事となり故事で遼来来(張遼が現れると泣く子も黙る)という語源が生まれました。

 

再び濡須口の戦いと山越が動く

 

曹操は、密かに山越王に使者を遣わし孫権の背後を突かせ自らは濡須口に進軍し、孫権を挟撃しようと計画します。これに呼応した山越王は、孫権領の建安に攻め込みますが軍に駆け付けた陸遜と賀斉に敗北してしまいます。そして曹操も孫権の火攻めに遭い苦戦を強いられ、その結果両軍混着状態に陥り、このまま進展しないと考えた曹操は退却を決断し、この計画は失敗に終わってしまいます。

 

度重なる曹操の来襲とこの戦がきっかけで勃発した山越による揚州各地での反乱に困った孫権は、曹操と漢王朝に偽りの降伏を申し入れ臣下の礼をとり、曹操と一時的な休戦状態に持ち込む事に成功します。そして山越の反乱鎮圧に全力を注ぎ各地で起きた反乱を鎮めました。

 

また、孫権は曹操に帝位に就くように勧めましたがそれを聞いた曹操は「この若造が!袁術と同じ末路をたどれといっておる。こざかしい!」とその案を撤回します。そして、217年に大都督の魯粛が後任に呂蒙を推薦し病死してしまいます。享年45歳。この親劉備派であった魯粛の死によって、呉と蜀との間で徐に亀裂が生まれてくることになります。

 

219年、念願の荊州制圧

 

劉備が曹操から漢中を奪い取った報せを聞いた孫権は、早速諸葛亮の兄である諸葛瑾を使者に遣わし、前回漢中を支配下に収めたら荊州を返還する約束を果たしてもらう事にしました。しかしまたここで劉備が「涼州を手にしたら荊州を返還致す」と言ってきたのです。

 

我慢に我慢を重ねてきた孫権ではありましたが、これ以上は無理として関羽が守る荊州の奪還を綿密に計画します。また、その頃には天下の情勢も大きく変わって曹操が1強だった時代も過ぎ、次第に劉備が頭角を現し始めてきたので取り残された孫権としては焦りが募るばかりでした。

 

ちょうどそんな時、関羽が劉備からの指示が無いにも関わらず勝手に魏の曹仁が守る樊城へ進撃を始めたのです。しばらくすると曹操から使者が参りました。内容は「ここで我らが結託し、呉が関羽を背後から襲って挟撃しよう」といった案でした。

 

孫権はこの案を一旦保留し、関羽の出方を探る為に自らの息子を関羽の娘と結婚する事を計画し、婚礼の使者を関羽の元へ遣わします。すると関羽からじられない返答が返ってきます。

 

「虎の子を犬の子に嫁がせてなるものか」と。

 

これを聞いた孫権は、怒り狂い「私が犬で関羽は虎か。人を舐めるにも程がある。許せん!」と吐き捨て、曹操の案に賛同し関羽討伐を決断して呂蒙に指揮を任せます。

 

呂蒙は早速関羽討伐の計画を立て間者を荊州に放つが、どうやら関羽は予め南郡に十分な兵士を残し、呉からの侵略が瞬時に分かるよう繋ぎ狼煙が築いてありました。また、これは呉の呂蒙を警戒しての備でもありました。これに驚いた呂蒙は攻めるに攻めれらず仮病を装って出陣出来ないようにします。

 

病気と称して一向に攻めようとしない呂蒙に痺れを切らした孫権は、陸遜に呂蒙の元へ見舞に行かせます。呂蒙の心中を察していた陸遜は、無名の自分が自ら大都督となって関羽の油断を誘う策略を呂蒙に伝え決起させます。そして無名の陸遜が大都督になった事で関羽は油断し残った南郡の兵を樊城攻めに向かわせます。

 

そして呂蒙は立ち上がり荊州攻めに出陣し、繋ぎ狼煙に対しては呉の兵士を商人に変装させ侵入させてから次々と破壊し南郡に対しては、ほぼ空な状態なので圧力を加え降伏させます。こうして繋ぎ狼煙は1回も上げることなくあっさりと南郡は呂蒙の手に落ちてしまうのです。

 

留守を任されていた公安の傅士仁や麋芳らも南郡が陥落した事と呉の圧力により降伏してしまいます。これにて微妙な関係で続いていた孫劉連盟は崩壊してしまうのです。

 

荊州陥落と知った関羽の軍は総崩れし、廃城である麦城に落ち延びてしまいます。そして、追い詰められた関羽は必死の抵抗も虚しく、子の関平と共に呂蒙に捕らえられてしまいます。関羽捕縛の報せを聞いた孫権は、関羽を配下にしようと説得を試みましたが、呂蒙から曹操の前例もあり関羽の忠義は揺るがないと諭され、関羽・関平親子を斬首します。

 

ただ、呉にとってこの関羽の殺害は考えが浅いモノでした。それは、関羽殺害と聞いて慌てて孫権の元へと駆けつけてきた国の元老である張昭の口から出きます。

 

張昭「わが君!関羽を殺したのは間違いですぞ!」

 

孫権「関羽を生かしておいては、後の災いになる」

 

張昭「それは考えが浅いです。関羽は、劉備と張飛と義兄弟の契りを結んでおり、死ぬ時は一緒と誓っておりますので、必ず劉備は関羽の仇撃ちで呉に攻入ってきます」

 

孫権「そうだった。しまった!」

 

張昭は塩漬けになった関羽の首を曹操に届け、劉備の怒りの矛先を曹操に向けようと孫権に提案し、それを承諾した孫権は早速関羽の首を曹操に届けましたがあくまで殺したのは呉である現実は変わらないので、劉備の矛先は変わりませんでした。

 

ここから劉備による関羽の仇討ちが始まり、呉と蜀が本来争ってはいけない国同士で望まぬ戦に突入す事となるのであった( ゚Д゚)

 

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 ※呉編「孫権」の前記事

 

 

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